スペイン到着の翌日から2日間、早朝にホテルを発って夕暮れまで、実の濃い観光が続いている。
遠路をひた走り、バルセロナ、バレンシア、クエンカの観光をはたして、昨夜首都マドリードに入った。
5月11日の今朝も早い。8時45分に市街のフィエスタ・グランホテル・コロン(Fiesta Gran Hotel Colon)を出発。午前中は二つの美術館巡りを中心とした市内観光になっている。そのあと遅めの昼食は、スペイン独特のおつまみ料理タパス賞味のはずだ。
マドリードは、地図で見ると、イベリア半島の中央に位置し、東端のバルセロナ、西端のポルトガル・リスボンからほぼ同じ距離だ。
昨日午後クエンカの城塞をあとにしてマドリード市街が見えるまで、荒涼とした大平原が延々と続いて、原野のはるかなるメッセージが耳に和んだ。アルベニスやロドリーゴに代表されるギター曲の原点に触れた気がした。
本日午後訪れる南のトレドと、明日アンダルシア地方へ向かう途中のラマンチャ地方を含めて、マドリードからその半径で円周を描けば、同様の荒れてもの淋しい風景が広がっているようだ。
それがマドリード市街に入った途端、別世界を見ることになる。ビル林立で、人口約309万人のモダンを絵に描いたような大都市だ。
その意味では特別な魅力を感じないが、この町は奥が深い。
9世紀後半というと1千年以上前、といってもイベリア半島の歴史ではさほど古くない。その頃侵攻イスラム勢力の北の砦として建設されたとか。その小さな集落が200年後(12世紀)にキリスト教徒の手に奪回される。
が、マドリードが歴史の表舞台に現れたのは、16世紀の1561年という。フェリペ2世がこの地に宮廷を移した年で、ハプスブルグ朝スペイン帝国の中心となった。
それから現在に至るまで、イベリア半島の歴史の中心である。その歴史遺産の幾つかをこの目で味わうことになる。
…………
レティーロ公園を横切って、ゴヤ門から団体の行列に従ってプラド美術館に入った。美術館は9時に開館している。
プラド美術館 Musco Nacional del Prado

広い館内は、1階から2階へ、このように展示されている。
1階(Planta Baja)
16世紀までの各国美術家の絵画……スペイン、イタリア、ドイツ、フランドル
2階(Planta Primera)
17世紀以降の各国美術家の絵画……スペイン、イタリア、フランドル、フランス、オランダ。
ベラスケスとゴヤの特別区画。 |
歴史的に有名な名画群目白押しの中にあって目移りする。これほどのぜいたくはあろうか。また一方、壮観に気圧されるとはこういうことか。
日本での特別展ならば、それこそ「立ち止まらないでお進みください」と急かされながらの鑑賞となろうが、ここではゆったり気分で見て回れる特権が許されている。残念ながらぼくたちは時間が……。
興奮を抑えながら、手渡されたパンフレットにチェックした作品を書き残しておく。
スペインの画家 |
|
ベラスケス(Diego Velázquez、17世紀) |
|
ラス・メニーナス、織女たち、道化エル・プリモ、男の肖像、スペイン国王フェリペ四世、ブレダの開城、フェリペ四世騎馬像、酔っぱらいたち |
|
スルバラン(Zurbarán、17世紀) |
|
ムリーリョ(Murillo、17世紀) |
|
エル・エスコリアルの無原罪の御宿り、貝殻の子供たち、聖家族 |
|
ゴヤ(Francisco de Goya、18-19世紀) |
|
「黒い絵」14点(我が子を喰うサトゥルヌス、ユーデット、魔女の集会、サン・イシドロ祭、ラ・レオカディア、二人の老人、読書、二人の女と一人の男、棍棒での決闘、異端審問、運命の女神たち、アスモデウス、スープを飲む二人の老人、犬)、着衣のマハ、裸のマハ、マドリード市民の処刑、マムルークの突撃、魔女の飛翔、カルロス四世一家、ボルドーの乳しぼりの娘 |
|
|
他の国の画家 |
|
ヴェイデン(Weyden、ベルギー、15世紀) |
|
フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico 、イタリア、15世紀) |
|
ラファエロ(Raffaello Santi、イタリア、15-16世紀) |
|
ボッティチェリ(Botticelli、イタリア、15-16世紀 ) |
|
ボッシュ(Bosch、オランダ、15-16世紀) |
|
ティツィアーノ(Tiziano、イタリア、15-16世紀) |
|
皇帝カール五世と猟犬、ミュールベルクのカルロス五世、自画像、バッカスの信徒、ヴィーナスとオルガン奏者 |
|
ブリューゲル(Pieter Bruegel、ベルギー、16世紀) |
|
エル・グレコ(El Greco、ギリシャ、16-17世紀) |
|
胸に手を置く騎士の肖像、十字架を抱くキリスト、羊飼いの礼拝、受胎告知、聖三位一体 |
|
カラヴァッジオ(Caravaggio、イタリア、16-17世紀) |
|
ルーベンス(Rubens、ベルギー、16-17世紀) |
|
村人たちの踊り、ヒッポダメイアの略奪、愛の園、フランス王妃マリア・デ・メディチ、我が子を喰うサトゥルヌス、東方三賢王の礼拝、三美神 |
|
ラ・トゥール(La Tour、フランス、17世紀) |
|
レンブラント(Rembrandt、オランダ、17世紀) |
|
プーサン(Poussin、フランス、17世紀) |
|
|
時間を気にせず、「どうぞご自由に、お気に召すまま」だったら、どうなっていただろう。
順路に沿って歩を進め、消化不良のままひと渡り見終わった。ときどき腕時計とにらめっこしながら、1時間で!
十分に時間を与えられたからって、大きな違いはないのだろうが、心底後ろ髪を引かれた。
館を出ると日射しがまぶしい。目の奥はまだ有名画家の歴史的名画ずらり展示の残像に満ちている。
17世紀バロック期の画家で、「無原罪の御宿り」が当美術館の看板の一つでもあるムリーリョの銅像に見送られながら、次へと急いだ。
…………
プラド美術館は、有名画家別に展示されていた。
そんな各画家の絵画群を順繰りに見ながら、妄想がもたげた。美術は他の芸術と違っている!
思い出しながら、それを少し書き留めておく。
文学、音楽……、どの芸術も、芸術家一人一人について掘り下げていけば、それぞれの「生き様」が浮き彫りされてくるはずだ。それは個別の作品とは別次元で、それなりに変わった楽しさを与えてくれる。ただし理解するまで時間がかかる。
美術、とくに絵画は、同じ画家のをずらっと横なりに一覧すると、各作品の向こうに画家のその時の生き様が隠れているように思えてくる。そう思うと、ぼくの偏見に満ちた想像上の画家の過ぎこし人生の起伏を垣間見ているようで、知らず別の感動を味わっている。
「生き様」について勝手な私見を一つ。……現在を起点として、「生き方」は現在進行形から未来に向かって歩んでいる。対して「生き様」は、過去から現在完了までの歩んできた足跡である。
「生き方」はだれもが描くこれからの道程であり、期待値や願望が含まれている。「生き様」はその人だけが踏みしめてきた生々しい道程である。
良否・優劣・善悪は別として、人として生まれ、生きとし生けるものすべてがそれぞれの「生き方」で生きてきたし、これからもそうだろう。その生き方はよかれと思われれば真似もされようし、さもなくば反面教師にもなりうる。
「生き様」は万人が万人、すべて違う。これまでもこれからも。
ぼくの生き方は、だれかを真似たこともあるし、反省に基づいて軌道修正もし、納得のもとにぶれなかったときもあろう。
「こんな生き方でありたい」「こんな生き方をしたい」が論理的に矛盾しない。
生き様は、すべてすんだことで、直しようがない。
プラド美術館を内覧しながら、そんな屁理屈が頭の中を行き来したのだった。
当館はノーフラッシュの撮影が許されていた。デジカメ乱撮り少々、下欄のリンクに載せた。
なお、本項記述にあたって、藪野健氏の「プラド美術館:名画に隠れた謎を解く!」(中央公論新社)にずいぶんお世話になった。御礼申し上げます。
|