7. 申酉事件 3
 東京高商の全学生が退学決議をして校を去ったあと、これを何とか撤回させようと、高商の商議員、商業会議所、父兄保証人会の三団体が、学生幹部に対して何日にも亘って、熱い折衝を重ねる。
 その結果、再び学生大会が開かれることになり、渋沢栄一、島田三郎、堀越善重郎らが壇上に立って、『熱誠な説諭・説得』をする。
 ところが『全学生の退学は既に満場一致で決めたこと。撤回は断じて許さない!』の声が学生の大勢を占め、紛糾は極に達する。幹部と三団体はこれに動じず粘りに粘って、遂に学生各班毎の決断の積み重ね≠ニいう念の入ったやり方を了解させ、それによって最後の断を下そうというところまでこぎ着ける。

「結果的にきわどい差で、『条件付き復学』ということになるのですが……」
 と津船。
 切羽詰まった雰囲気を伝えるのは難しいようだ。野溝マリは、また消化しきれなくなったか、うつろな目を窓に向けている。
「こうした当事者としてはギリギリの状況も、漱石の日記では、……」
 津船は先ほどの資料を再び手にする。複雑な感情が入り交じった声の調子だ。マリの目が光る。

『高商生徒無条件にて復校と決まる。仲裁者は実業家也。高商生徒は自分等の未来の運命を司る実業家のいふ事はきくが、現在の管理者たる文部省の言ふ事は聞かないでも構はないといふ料簡と見ゆ。
 要するに彼等は主義でやるのでも何でもない。あれが世間へ出て、あの調子で浮薄な乱暴を働くのだから、実業家はいゝ子分を持ったものである。(明治四十二年五月二十四日)』

「世間一般の見方を代弁しているかもよ」
 マリがいっぱしの注釈を挟む。津船はどっちつかずの顔で続ける。
「翌日から渋沢らの三団体が桂内閣と、ぎりぎりの交渉を重ねます。そしてやっと一ヶ月後に、『専攻部の四年間存続』という、取りあえずの文部省令を勝ち取るわけです」
「これが事実上の(くさび)となった」
 須賀老のつぶやきに、
「その通りで、三年後の明治四十五年には、文部省令『専攻部は永久存続』が発令されて、申酉事件が決着します」
「事件は終わったが、これですんなり大学昇格に道が繋がったわけではないんだ。まだ遠い。渋沢翁はこう言ってるよ」
 と須賀は資料を指摘する。

『この度の文部省令は大層喜ばしいやうであるけれども、私はそんなにまで喜びなさらぬでよいだらうと思ひます。我物は我物である。申さば取られたものが元に戻った、五分々々の話である』

「高商は官制べったりの政府に対する抵抗の歴史を背負っているのだが、申酉事件はこれを象徴している。漱石のような見方もないがしろにできないが、この事件が流れを変えた」
 そう言って、老先輩は注ぎ足しの茶をゴクリと飲む。
 恵理子が気がかりな様子で訊く。
「辞表を出した教授はどうなったの?」
「講師として復職することになった、とありますね。こちらもどうやら元のさやに納まったようですね」
 津船が資料をなぞって答えてから、それと分かるように咳払いをして、
「お役御免でいいですか」
 立ち上がって背伸びする。
 須賀老は目を細めて後輩を労う。次いで、言い忘れていたとばかりに、
「『如水会』について触れておきたいのだが……。いまもなお続く大学OB会、この発祥が先ほどの申酉事件に関係しているのでね」
 須賀老自身如水会への寄与大だ。このように話す。

 母校の基盤の弱さをいやと言うほど味わわされたOBたちが、事件が終結して二年後の大正三年に、会名を正式に『如水会』として発足させた。渋沢栄一が名付け親で、礼記(らいき)≠フ『君子の交わりは淡きこと水の如し』からとった。
 親睦は二の次で、母校の防衛≠ェ基本理念だった。会則の第一に『母校の目的及びその使命の達成に協力し、日本経済と社会文化の発展に寄与する』としている。
 以降今日に至るまで、諸施設の基金や各種催し、留学・海外派遣の助成等、母校への積極的な資金協力・援助をしてきている。精神・思想面でも心強い後ろだてになってきた。
 後に、申酉事件に匹敵する籠城事件≠ェ起きるが、そこで如水会は学園の危機を救うために、学生・教授たちとともに闘った。その精神と団結力は今日まで脈々と続いている。

 外はまだ明るいが、陽差しは弱くなってきた。垣根の陰が芝生に長い。小鳥のさえずりもない。
 津船は恵理子の用意したおしぼりを顔に当てている。須賀は次々と何かが浮かんでくるようで、頭を掻きながら、
「続きをもう少しだけ」
 と、腰を掛け直す。
「その後も陰に陽に政府の干渉は続くのだが、流れを戻すことはできなかった。が、商科大学への昇格は、申酉事件のはるかあと、それから十一年もたった大正九年(一九二〇)だ。軍国主義下で難しい時代(とき)ではあったが……」
 更に、
「高商がやっと宿願の大学昇格を果たした三年後に関東大震災が起きた。国民にとって大惨事だったことは言うまでもないが、昇格直後の東京商大には青天の霹靂(へきれき)。あろうことか、神田一ツ橋の全校舎が壊滅してしまった。天災と火災であっけなくね。それからが佐野学長たちの真骨頂ということになる。全校あげて復興に立ち上がる……。そんなところまで来たのだが」
 須賀は腕時計を見てつぶやく。
「五時か……」
 三人ともわれに返った風で、壁の時計に目を向ける。
「残りは日を改めることにしようか?」
 須賀老は聞き役を(おもんぱか)った風で提案する。恵理子が即座に、
「ここで切ってしまうと、私たちにはわからなくなりますよ。歴史は繋がりですから」
 母校で美術史を教えている彼女のこと。遠路帰らねばならない津船を気遣いながらも、言葉は強い。
「僕は遅くなってもいいのですが……、先輩はお疲れでしょう」
 津船はどちらとも取れる言い方で、歯切れが悪い。
 野溝マリははっきりしている。
「おじいちゃん、お疲れはわかるけど、続けるべきよ。間が開けば間抜けということ。またもう一度初めから出直しになるわよ」
「新しいお茶でも入れましょう」
 言いながら恵理子は席を立つ。ご老体は満足顔だ。その気になっている。

 津船がマリに話しかける。
「アンコールワットの方のことで、僕に話があるそうだけど」
 唐突な問いかけにも、マリは心得顔で頷いて見せる。
「伯母さんから聞いていただいていたのね。そうなの。ファレットさんは、カンボジアのシェムリアップで旅行会社を経営しているの。アンコール遺跡群のあるところよ。私より五歳上。日本語も達者だわ。津船さん、あの辺詳しいのでしょ?」
 恵理子が横に来て、
「そうよ。前にお仕事でよくお出かけになっていたそうだから。お隣りのタイがメインでしたわね」
「詳しいというほどでもないですが。僕はカンボジアやタイの人々が好きです。向こうの国民性によるのかもしれませんが、取引でも気心が通じ合ったケースが多い。一般論ですがね……」
 この場では津船はそつがない。マリが自分の話に戻して、
「彼、来年初めに仕事を兼ねて東京に来ることになってるの。その前に津船さんに聞いていただきたいと思っているのですけど。できればアドバイスも」
 恵理子の言葉は少々きつい。
「聞いた限りでは、彼、よさそうなのだけど。全てマリちゃんが情報源ですから」
 津船は二人を交互に見ながら、
「僕はいいですよ。できるだけ都合つけます」
「……でしたら、虎ノ門のホテルオークラご存知でしょ。隣りが大倉集古館なの。そこへお誘いしようかしら……、近いうちに。責任者が絵友達ですの」
 と恵理子。
「古美術館ですね。その建物、伊東忠太の設計でしょ」
 津船が即座に言う。
「そういうこともあって深海さんは提案しているのだ。オークラのレストランで昼食もいいじゃない」
 聞くともなく聞いていた須賀老も、穏やかにあと押しする。
 顔をほころばせるマリに恵理子が代わって、
「では改めて、ご都合のよろしい日をお訊ねしますので……」

7.申酉事件ー3の朗読 14’ 15”
< 7.申酉事件ー2 8.商大誕生ー1 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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