「申酉事件が起きる八年前の明治三十三年(一九〇〇)に、渋沢栄一が、男爵になられたときの祝賀会で、『自分は予てより本校を大学に進めたいという念願を持ってきた』と、〝商業大学必要論〟を説いています。東京高商が大学に昇格せんとする口火と言えるでしょう」
津船後輩はまだよそ行きの話っぷりで、目は資料に吸い付いている。恵理子とマリは、お手並み拝見といったところ。
「翌年の明治三四年に、ヨーロッパ留学中の福田徳三・関一ら八教授が、〝ベルリン宣言〟なる論文を公表して、『本校は、その実力からいって、号令一下、何時でも大学になりうる状態である』と、学園内外に言わしめます。これが導火線ということですか?」
取り繕ったように先輩に水を向ける。
「そうとも言えるが、それがとんとん拍子には進まないんだね。直後に日露戦争が勃発して、機運は一時中断となってしまうし……。但し『何時でも大学になりうる状態である』は本当なんだ。明治三十年に専攻部を設置した結果、予科一年、本科三年、専攻部二年、あわせて六年という教育年限からいっても、枠組みとしては当時の官立高等学校から帝国大学卒業までの年限と同等と認められていた。逆に政府としても、〝高商〟のままで放っておいては教育制度上おかしいのだ。だから申酉事件までの紆余曲折は起こるべくして起きたことになる。専攻部卒業者には、帝大の学士号にあたる〝商業学士〟の称号が与えられたし、実質的に〝商業大学〟という名への昇格が切望されるのは当然だった。そうでしょ?」
と、老先輩は三人の同意を求める素振り。
今度は津船がつかの間資料から目を離して、彼なりの考えを述べる。ここは自信ありげだ。
「申酉事件を支えた教授陣の大半はヨーロッパ留学組ですよね。ということは、官立一辺倒の維新政府体制に、学生たちと一丸となって公然と抵抗した背景に、彼らが海の向こうで体得した思想・文化が根付いていたということですよね」
須賀は頬をゆるめる。津船は気をよくして資料に目を戻す。恵理子とマリの反応は? 彼、まだそれを確かめるゆとりはなさそうだ。
「ベルリン宣言から六年後の明治四十年に、国内で大きな動きがあります。根本正という議員が帝国議会に提出した『商科大学設置に関する建議案』が衆議院を通過し、貴族院でも可決されるのです。この案には『東京高等商業を改造して、商科大学に昇格させるのが適当』という含みがあったようですが、根本議員たちの意図に反して、流れは『東京帝大内に商科大学を置くべし』に蛇行していきます……」
根本正について、資料の備考欄にこうある。
衆議院議員の根本正氏は、『未成年の飲酒・喫煙を禁ずる法律』を作ったことで有名。他に、ヘボン式ローマ字の普及を説いている。敬虔なクリスチャンで、極めつきの正義漢だった。
後輩は続ける。
「翌明治四十一年(戊申の年)に、蛇行が本流となって、政府は『東京帝国大学法科大学に経済学科を増設する』と閣議決定してしまいます。半年後には経済学科で授業が開始されました。年明けて、明治四十二年(己酉の年)二月に、高商の学生大多数が校長の松崎蔵之助に、『商科大学実現の請願書を政府に進達して欲しい』と強力に申し出ます。これに対して、松崎校長は拒否したばかりでなく、沈静させることに必死で、彼らを『不届き千万!』と罵倒し、代表の五人を退学処分、一人を無期停学にしてしまうのです」
「校長は何を考えていたのかしら?」
恵理子とマリが同時に口を挟む。マリも話について来ている。
疑問に答えるかたちで、ここは須賀老が注釈する。
「天下りの松崎は、ちょうど国策の東洋拓殖株式会社の副総裁というアメ玉がぶら下がっていたんだ。それに目がくらんだようでね……」
老先輩の目配せで津船は続ける。
「学内が騒然となったのは当たり前です。渋沢栄一らが動いて、『血気にはやらぬように』と懸命に阻止し、善後策を練ります。一方、高商の教授連ですが、佐野善作ら十一人がそろって文部大臣に直談判します。その時、高商側が主張した『商科大学を帝大内に置くのではなく、帝大の外に、独立の単科大学として作るべきである。東京高商を改造して商科大学にするか否かとは関係ない』に対して、文部省側は『商業に独立の単科大学など必要なし。商科大学は、帝大内に一分科として設置すればそれで十分』ということで、歩み寄りを許さず、決裂してしまいました。そのことで、佐野、関、滝本、下野の四教授が抗議の辞職をし、松崎校長は詰め腹を切らされて退任します」
と津船は、一瞬躊躇しながら別紙を引っ張り出し、
「この時の状況を記した夏目漱石の日記が残っているのですが……」
顔をしかめてその箇所を読む。
『……由来高商の生徒は生徒のうちより商売上の駆け引きをなす。千余名の生徒が母校を去るの決心が恫喝ならずんば幸也。況んや手を廻して大袈裟な記事を諸新聞に伝播せしむるをや。
渋沢翁何者ぞ。それ程渋沢に依頼するなら大人しく自己の不能を告白して渋沢にすがるのが正直也。
高商の教授二、三辞職を申し出づ。尤也。早く去るべし。(明治四十二年四月二十五日)』
「その後、渋沢栄一と文部大臣が丁々発止とやり合っています。『帝大内に商科大学を置くというような姑息な策は止めよ』との渋沢に対して、文相は『既に方針は決定済みであり、しかも高商卒業生は、日本の最高学府たる帝国大学へ無試験で入学できるのだから、実に有難いことで、誠に幸せ者ではないか。男爵からとやかくと異論を差し挟まれるのは誠に心外』と。このように各層の抵抗の甲斐なく、五月はじめに文部省が『高商の専攻部廃止』を省令として告示します」
資料の注書きによると……
専攻部とは、大学の最高学問過程に位する二ヶ年の年限、つまり高商を大学に格上げしようとする悲願の本丸で、政府はそれを打ち砕こうとした。
「その日夕刻、二千人を超す聴衆を前にして、大隈重信、島田三郎、林毅陸、江原素之、根本正、安部磯雄といった方々が文部省の不当を訴えます」
「大隈重信……、またいろいろな方だこと」
恵理子が名前を復誦している。須賀は〝そうだね〟の顔はするが、強いてコメントはしない。
「相前後して、学生大会は全学生千五百人の総退学を決議し、最早望み尽きたとして、五月十一日、全員帽子の徽章〝マーキュリー〟をむしり取って、母校正門の土に叩きつけて去ります」
ここで老先輩が口を挟む。
「学生有志が残した『校を去るの辞』は、後の学生のバイブルとも云うべきものでね。私は今でも多少は空で言える」
自慢顔に、
「お願い!」
と、マリが叫ぶ。
「最初と最後のところだけでもやってみるか」
念のためにと用意の資料に目をやりながら、先輩は感慨深げだ。
悲風惨澹天日曇る明治四十二年五月十一日、吾等同胞一千五百、袂を連ね、茲に最愛の母校を去る。
悲憤痛恨胸塞がり感極まりて慟天哭地、言ふに辞なからむとす。(中略)
天下の公論と吾等十年の主張とを無視し、且つ既得の権利たる専攻部亦其の奪ふ所となりて、光輝ある一橋校三十年の歴史を其の蹂躙に委ね了らむとは。
想うて茲に至れば腸九回せんとす。噫吾等は遂に血涙を呑みて母校を棄てざるべからざるか。
一橋の空雲愁ひ風怨みて、長へに吾等が恨を封ぜん。
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