13. ロマネスク 2
 休日出勤の事務員が熱い茶をサービスする。伊東博士が客に勧めながら、自らも香りを味わうように一口二口すする。自身の作だという奇妙な妖怪模様の湯飲み茶碗をそっとテーブルに置いてから、気を許した面持ちで言う。
「設計者、建築家が思い通りに仕事を進められるのは、非常に珍しいことなのです。あの安田講堂でも、内田君たちの苦労がうかがえますよ」
「……先生でもですか? なぜでしょう?」
 藤井取締役が不思議そうに訊く。弟子の松井が代わって答える。
「先生が時々おっしゃるのですが、これまでで気に入っておられるのは、十五年ほど前に造られた上野・不忍(しのばず)弁天堂天龍門だけだそうです。先生の作品の中では小さな部類に属しますね」
 博士は弟子の言を無視して言う。
九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)()く、と云いますが……」
 言葉を継ぎかける博士に代わって、
「長い間の努力も、終わる間際のわずかな失敗一つで完成に至らない、ということですか?」
 と若い高垣教授。自分なりに注釈はしたものの、けげんな顔。
 博士はうなずいて、
「私の推敲や努力の不足が大半ではありましょうが、他から干渉や煩わしい注文をされたものに会心の作など決して生まれるわけがありません。予算も重要ですが、問題としては小さい。それより、施主と考え方が細部に亘って、最後まで一致するかどうかです。だから、まだ私自身心底満足のいった建築物はないと言ってもいいのです。例えになるかどうか……」
 と言って、自説の一端が出る。
「禍福吉凶の大本(おおもと)と云うことで、方位家相が常に論議になるのですが、論拠の陰陽五行説自体が実にデタラメなのです。鬼門≠オかり、くだらない迷信です。が、何ごとも迷信と知って方位家相に従うのは迷信ではありません。迷信だということを知らずにこれを盲信することが迷信なのです」
 こうしたことも博士を悩ませているようだ。佐野たちは、感心しつつも割り切れない表情で、博士を見つめている。博士はにこっと笑って言い足す。
「責任の重さを十分承知の上で、このプロジェクトに参画できるのが楽しみです。正直そう感じているのです。松井君と思う存分やってみます。身勝手な私ですが、何より御校のご意向が大切と考えています。独自の歴史・伝統、そしてみなさんの強い思いです。ともに力を合わせていただいて、私にしかできない建物を目指したいです」
 松井も深くうなずいている。
 藤井が、茶をすすってから、再び質問する。
「ロマネスク様式を下敷きにお造りいただくわけですが、そのお考えをもう一度お聞かせ願えれば……」
 博士は細い目をさらに細くして話し出す。
「私がアジアから、インド、トルコを通って、ヨーロッパまで驢馬(ろば)で巡ったのは二十年ほど前です。振り返りますと、中国やインドの建築が私に与えた影響は計り知れません。一方、ヨーロッパの建築には大した感動を覚えませんでした。ロマネスク様式だけは別でした。イタリア・ロンバルディア地方の寺院や修道院を詳細見るに付け、感激したことが目に浮かびます」
 記憶の世界から目覚めたように、窓越しの安田講堂を遠目に見て、
「ゴシック建築は、あの講堂のように、建物自体が大きいにも拘わらず、軽快で見栄えがよろしい。背が高いこともあって、中は明るいです。それに比べてロマネスク様式は、どれをとっても鈍重そうで、背が低く、窓が小さい分、暗い。花に例えれば、開花にほど遠い堅い(つぼみ)≠ナす。一方、ゴシックは、満開の花とでも言いますか……」
 松井青年はかつて受けた薫陶がよみがえっているようだ。腕組みして目をつむっている。博士の静かな口調は続く。
「現代に必要なのは軽快な気分よりも鈍重な精神≠ゥもしれませんよ。私がいま御校講堂の基本様式としてロマネスクを強く提案するのは、四神像をファサードに配置したいだけの理由からではありません。当時の僧侶や敬虔な信者が刻苦して作り上げたこの様式は、素人ではありますが、却って素人の真剣さから、何とも言えぬドッシリした気持ちに結びつきます。これが御校の歴史精神に通じると考えるのです」

 しばらく間をおいて、博士は思い出したように付け加える。
「文部省からも協力の話が来ています。図書館、本館等、他の政府管轄の関連ですが、いい知らせです。建設課長の柴垣さんがその任に当たるそうです。彼はよく存じています」
 課長の柴垣(てい)太郎をはじめ、建設課は伊東忠太の門下が多い。
 博士は、妖怪の湯飲みを愛おしそうに、茶をもう一口すすって、話題が少し飛ぶ。
「渋沢先生の後ろ盾は心強いですね。御年は八十五歳ですか? それでも意気軒昂で、今回の件につきましても」
 と、やや言い淀みながら、
「申し上げてよろしいのかどうか、ご自身からも直接ご依頼がありました。併せて、大倉翁からも協力要請の連絡が入っています。お二人は商法講習所生みの親でしたね」
 大倉翁は八十八歳である。佐野たちはハッとして、互いを見交わす。博士との交渉経緯は報告しているとはいえ、両翁が熱心に根回しをしてくれていた──。大倉翁は自身の構想に対する強力な後援者(パトロン)だから、さすがの伊東博士も、余程でない限り断れない。
「これほど楽しくお話しされるのは珍しいんじゃないですか?」
 弟子の冗談口に、師はのどかな顔をほころばせる。
「いまも翁のご依頼で、京都の祇園閣をはじめ、二、三引き受けているのですが、日程の調整はおまかせくださるとのことです」
 と打ち明ける。
 他にも、前年死去した叔父平田東助伯爵の墓や像の台座、等が設計を終え、工事進行中であることを佐野たちは承知している。博士はそれ以上言及しない。
 三時を過ぎた弱い陽差しに、銀杏の緑がきらめいている。博士がふとつぶやく。
「御校創設時に福沢諭吉先生が、渋沢翁の考え方に共鳴して起草したという、開校の建白書も、美濃部さんに見せて貰いました」
 佐野の脳裏に温厚な法学者の顔が浮かぶ。
「御校がこだわる四神像の意味合いが分かってきましたよ」
 伊東博士は寛いで続ける。
「中国古来の四神思想は存じています。東の青龍が龍、西の白虎が獅子、南方の朱雀が鳳凰で、北の玄武が亀と蛇の合体ですね。いずれも想像上の霊獣ですが……。古くから方位や星宿に当てはめられていますし、屋根の瓦当(がとう)や墳墓の壁画にも用いられています。大自然への畏怖の象徴として、日本の古墳や寺院にも影響を与えています。御校の四神≠ヘ揺るぎない学園史そのものです」

 ──兼松講堂竣工の四年後にあたる、昭和六年から三年かけて博士が設計・建築した築地本願寺で、ご自身作の四神像に出合える。本堂の中心柱四本それぞれに巻き付けられた金属製グリルは、いずれも四方に四つの紋様をレリーフしてある。それらは方位も正確に、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神である。この浄土真宗の建物が、博士の心のどこかで兼松講堂と繋がっていると考えるのは、穿(うが)ちすぎだろうか。
 ただし、こちらの絵柄は忠太特有と云うべきどう猛な形相の怪獣たちであり、兼松講堂ファサードの戯画風紋様との類似点は全くない。
 兼松講堂以前の博士の作品に四神は見当たらない。

「『マーキュリー』の蛇二匹を玄武の『亀蛇(きじゃ)』に(なぞら)えて『四神』の一翼と見なし、その四神像を旗印とした発想は面白いですね。が、その発想を遙かに超えて、御校の精神がのどかに四神像に宿っています」
 博士は佐野学長に親しみを込めて言う。
「私の全精力を傾けてもその豊かな重みにはかなわないでしょう。どこまで表現できるか、いい試みになりそうです」
 決意は顔に見えないが、微笑がそれを物語っている。
 弟子に向かって語りかけるように、静かに言い足す。
「外部施工も私の考えが行き届くようにしますが、内装は松井君に全てを任せます。幸い最寄りに国立駅が出来上がりましたから、私も事情の許す限り現地に通うつもりです」
 …………

 このようにして兼松記念講堂の建築がはじまったのではないでしょうか。
 前にお見せしたかもしれませんが、伊東博士と佐野学長がこの事業を支える建築委員として依頼した方々は次の通りです。
 余談ですが、直後に着工した図書館と本館は、伊東博士が直接タッチしていないとはいえ、文部省の建設課に籍を置く彼の弟子たちが(たずさ)わりましたので、博士の意向が十分に反映されて、キャンパス全体がバランスよく調和されているのです。

設計・建築 伊東忠太(設計監督)、松井角平(伊東門下、内装責任者)
東京商大 佐野善作(委員長)、堀光亀、上田貞次郎、村瀬玄、黒川善一、井浦仙太郎、星野太郎、木村恵吉郎、奈佐忠行、内池廉吉
兼松商店 藤井松四郎、前田卯之助、林荘太郎、御前綱一
文部省 柴垣鼎太郎
 怪獣だらけに大きな意味があったという、私の考え方は如何でしたか?
 伊東博士ご自身が常におっしゃっていたように、博士が好んで装飾に使った妖怪・怪獣の類は、どの建築物においても『現実からの逃避ではないし、手慰みでもない』のです。
 とくに兼松講堂には、そうでなければならない深い理由≠ェ博士ご自身にあったと、私は確信しています。言うまでもなく、ファサードに浮き彫りされた四神像とのつながりですね。渋沢翁をはじめ学校関係者も大いに納得したことでしょう。
 もう一つ、兼松講堂は、数年前に起きた関東大震災に対する、設計者たる博士自らのレクイエムとも言え、耐震耐火に特別の配慮がなされています。

 博士は講堂が完成するまで、まだ造成にかかったばかりの辺境の地に通い詰められました。休日のみならず、寸暇を惜しんで。
 講堂外部が完成した頃からは、中に(しつら)えた自分の作業場に入って、怪獣一体一体をご自身で粘土をコネて作られたと言われています。
 その前年、中央線の国分寺・立川間に、やっと木造三角屋根の国立駅ができ、一日に数本、わずか四、五両編成の電車が利用できるようになった頃のことです。
 こうして兼松講堂は、博士生涯唯一の洋風建築として出来上がることになります。
 …………

13.ロマネスクー2の朗読 19’ 03”
< 12.ロマネスク−1 14.四神像ー1 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
閉じる