12. 建築者 2
 その日午後、東京商大学長佐野善作は、腹心の堀光亀教授と弟子の高垣寅次郎教授を伴って東京帝大正門をくぐった。
 この門は、伊東忠太博士が十三年前の明治四十五年七月、関東大震災の前年、明治天皇の『御臨幸を仰ぐ』ために設計したものだ。鉄製の門で、花崗岩の柱に支えられている。天皇は、『初めて此の正門を御通行あらせられたり。而してまた最後の御通過』となり、二十日後に崩御されている。
 正面には、完成を間近に控えたゴシック様式の安田講堂が(そび)えている。三年前(大正十一年)に清水組の手で着工し、一ヶ月後に完成予定とか。さすが予算百万円の豪華・巨大建造物だ。安田財閥の領袖・安田善次郎翁の寄付による。……三人は歩を止めて、じっと見つめた。
 石畳を踏みしめながら、銀杏並木を右に曲がる。三四郎池の真向かいが帝大教授・伊東博士のいる工学館だ。

 事務員が三人を会議室に案内する。兼松商店の藤井松四郎取締役が既に来ていて、佐野たちと一礼を交わした。藤井は今回の寄付に関わる責任者の一人である。
 程なく伊東博士が数人とともに現れた。
 佐野たちは素早く腰を上げて自己紹介し、応えて帝大側は、総務部長が博士を紹介する。二ヶ月前には帝国学士院会員の職にも就かれ、多忙であることも言い忘れない。
 伊東博士は中肉中背で、縁なしメガネの細面(ほそおもて)に、うっすらとした口髭とフーマンチューの顎髭(あごひげ)をたくわえて、額はかなり禿げ上がっている。頭も髭も白髪(しらが)が目立つ。佐野たちの予想とはちがって、尊大な素振りは微塵もない。作業服を着せれば、庭師でとおりそうだ。
 この人が三十年前に一世を風靡した博士論文『法隆寺建築論』の著者とはにわかに信じがたい。論旨は──、

『法隆寺中門の柱は胴張り≠ニ云われ、中程で少し膨らんでいる。この膨らみの起源が、ギリシャ・パルテノン神殿まで(さかのぼ)る』とし、
『其の柱は(中略)ギリシャの所謂(いわゆる)エンタシス≠ニ名づくる曲線より成り、(中略)
 以上の事実を解釈するに歴史的観察を以てし、東西交通の結果となすは、予の(かつ)て深く信ずるところなり』
 ──この学説は、その後、なんの証拠も見つからないとして、専門家の間では受け入れられていないようだ。が、これを証明することを含めて、博士は、論文発表の四年後から、三年半を掛けて、中国からミャンマーを経てインドに至り、さらにトルコ、エジプト、ギリシャ、フランス、ドイツと、渡り歩いた。ロバにまたがって荒野を越えたり、途中信頼する同行者を亡くしたり、自らも病で死に目にあったり、ずいぶん過酷な旅をしたというのだから、気宇(けう)壮大は言うまでもなく、並はずれた意思の持ち主だった。
 その博士が、今は建築学界の権威として、東京商大学長・佐野善作と対面している。
 …………

 今度は伊東博士が、会議中は外部からの接触を断っている旨述べて来客を安心させてから、身内を紹介する。
 隣りの蝶ネクタイの紳士に手を差し伸べて、
「美濃部さんにも来ていただきました」
 東京帝大・東京商大、両校の教授を兼ねている美濃部達吉博士が佐野に笑顔で会釈する。
 美濃部は、既に憲法学者として、世に知られている。長身、頭髪薄く、丸縁メガネをかけて、瞳が穏和である。グレーのスーツ姿で、胸ポケットに白いハンカチが見える。伊東より五歳若い。
「こちらは私の門下生で、松井角平君です。代々の建設会社を継ぐことになっているのですが、私の仕事をこまめに助けてくれています」
 松井は遠慮がちに頭を下げる。三十歳前後か。色黒の引き締まった顔で、硬骨漢といった表現が似合いそうだ。

「お聞き及びと思いますが……」
 と佐野学長が説明にはいる。
「私どもの学校は、府下立川町の手前、谷保村の森林原野を開拓して造成される学園都市へ移転することになっています。その新しいキャンパスに、当校の表看板として誇らしい講堂を企画し、御校・安田講堂のような見事な出来栄えを期待しています」
 一呼吸のあと、
「噂にたがわず、安田講堂は完成を前にして、圧倒されるほどの美観ですね」
 真顔の褒め言葉に、博士は一応の同意を示すが、ややぎこちない。安田講堂は博士の作ではなく、同校内田祥三教授と博士の弟子で講師の岸田日出刀の共作である。
 佐野は一瞬〈言わなければよかった〉との思いか、戸惑いを見せるが、思い直したように続ける。
「幸い、同行願いました藤井様の兼松商店より五十万円という多額の寄付を賜り、大掛かりな構想を練るに至ったわけです。完成すれば、兼松様全社員の尊い志と創業者の兼松房治郎翁に因み、『兼松記念講堂』と命名させていただくことになっています」
 伊東博士はもとのにこやかな表情で、
「事情については各方面から伺っています。美濃部さんも熱心に説明してくれました」
 と気さくに応対する。『直言居士』との前評判を気にしていた佐野学長は内心胸をなでた。
 美濃部教授の磊落(らいらく)な笑顔とは裏腹に、同席の堀たちは、先ほど博士が示した微かな表情の動きを見逃すはずはなく、はらはらしている。
 佐野は居住まいを正し、再び伊東博士を正視して言う。
「わが校は森有礼(ありのり)先生の私設塾として開校し、その後東京府の管轄を経て、明治十八年に国立になりました。そのとき校章を正式に、この『マーキュリー』に制定しました」
 テーブルに置いた葉団扇(はうちわ)大の校章実物を博士の前に寄せる。博士は手に取って眺める。
「これは本来ギリシャ神話のヘルメス、つまりローマ神話ではマーキュリーが携えた杖ですので、私どもは校章自体を『マーキュリー』と呼んでいます。その杖に蛇が二匹絡まっています。この蛇を中国の故事にある四神の一翼である亀と蛇が絡む『玄武』とし、他の『朱雀』、『白虎』、『青龍』を併せて『四神』と見立て、これらの紋章を一括して当校の象徴としております」
 佐野は校章の横に、霊獣三体の紋章一つ一つを並べる。こちらは中国風で、いずれも威圧するような戯画として描かれている。
 伊東は幾分興味深げに見入る。が、すぐ視線を佐野に戻す。佐野は腰を据えて続ける。
「ご承知いただいているとは思いますが、ボートは当校が最も力を入れている校技でありまして、御校との対校レガッタは、全校あげての年中行事です。端艇部OBの会名が『四神会』で、端艇部長は学長の私が兼務しております」
 伊東は目尻を下げながらも、佐野をじっと見ている。
「明治二十二年に、初めて当校OBが、六挺ヨール艇を四艘建造したとき、それぞれにこれら四神のデザインを張り付けています」
 その頃から、事実上、『四神』が学園の旗印として、精神的支えになってきたこと……、佐野は学園の歴史を、申酉事件に至るまで、掻い摘んで述べる。事実をありのままに。──となると、内容は全てに亘って官の牙城東京帝大を刺激するものであり、帝大側として面白くもないことが多かろう。が、これを述べなければ話が繋がらない。
 総務部長は、案の定顔を背ける。同行の堀と高垣のハラハラした様子とは対照的に、美濃部教授は横を向いたまま涼しい顔。伊東は佐野の目を変わらずじっと見ている。佐野は臆せず話を進める。
「先生の社会的立場は十分に存じているつもりですし、設計・建築につきましても……」
 と手持ち資料を開き、
「前の内務大臣で、先生の叔父であられる平田東助伯爵のお墓を完成間近にして、他にも幾つか並行してお仕事進行中と伺っています。引き続き大倉喜八郎翁のご依頼による京都別邸、祇園閣、集古館に取りかかられるとか……。教授としての職務に加えて、多忙極まる日々が並々ではないことを承知しています」
 佐野は伊東忠太を見据えて話し続ける。
「無理と知りながら、どうしても博士にお引き受け願いたい気持ちを込めて参上しました。先生の設計でなければこのプロジェクトはありえません。当校の総意であることは勿論ですが、私自身の願いです。なぜなら──」
 伊東忠太の表情は穏やかだが、真剣に耳を傾けていることは見て取れる。
 佐野がありったけの思いを込めて訴えたあらましは、

 ──自由・自治・文化を行動規範としてきた、学園の伝統を備えた殿堂を目指している。
 ──学園の歴史的背景が刻み込まれ、誇らしく後世に引き継がれるような象徴的建築物でありたい。
 ──そのために、歴史を共に歩み、学園を支えてきた人々の精神を内包する『四神像』を最適の場所に配置して、これからの旗頭としたい。
 ──博士が大学院生時代に造られた京都平安神宮にはじまって、今日に至るまでの幾多の業績を存じている。建造物の個々を通じて、博士に憧憬(しょうけい)と共感を覚えている。
 ──『建築は単に建物を造ることではなく、芸術である』とのお考えと、その趣旨に沿った数々のご経験に照らして、当校独自の歴史を秘める『四神像』を生かした新講堂を、誇らしい学問の殿堂として造り上げていただける方は、博士を()いてない。博士の揺るぎない建築思想の記念碑でありたい。
12.建築者ー2の朗読 16’ 50”
< 12.建築者ー1 12.建築者ー3 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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