外は深い闇。津船は窓を開けて夜空に見入っている。意外に星数は少なく、粒は小さい。それでも彼が住む今の浦安に比べれば。
浦安では、工場地帯でもないのに、このところ夜空にめっきり星が見られない。やはりこのあたりも地球温暖化・環境汚染の影響を免れられないか、と津船は寂しい。幼いころ紀伊半島南端に近い田舎の故郷で眺めた満天の星がいまも彼の脳裏にある。
ここ鎌倉はまだ星空であるだけましか。数年前に、長野・白馬岳の山荘で眺めた深夜の暗天は、大粒ぞろいの星座群に彩られていた。
「お茶漬けでも……?」
主たる恵理子の問いかけに、
「僕は結構です。今帰れば、午前様にはなりませんので」
津船は辞退する。元気な野溝マリが、茶のお代わりを入れている。
「忘れないうちに」
と、須賀は資料の山から二枚綴りの用紙を取り出して、三人に配る。
「その頃の箱根土地の分譲広告と佐野学長の談話をまとめておいた。月岡教授の資料をもとにね。移転のこぼれ話として参考にはなるでしょう」
タクシーを呼んで、須賀と津船が同乗する。途中須賀がマンションの自宅で降りて、津船は大船駅へ急ぐ。プラットホームへ階段を昇ると、間もなく電車が来た。
客席はまばら。四人掛けを独り占めにして、須賀の資料を広げる。
・ 国立大学町宅地分譲広告 箱根土地株式会社
東京商科大学の新移転地が、昨年(大正十四年)九月二日、政府の認可指令により国立大学町に決定して以来、商大を中心としたる約百万坪の郊外生活の理想郷が建設せられて居ます。
目下、道路、下水工事、新設停車場等の建築工事を致して居りますが、本年早々商大の寄附講堂(工費五十万円)の建築に着手し、同時に工費六百万円の本校舎も建築せられます。……
・ 佐野善作学長の談話(大正十四年十一月十五日、学園新聞)
東京商大の移転と同時に小学校を開いて、付近の子弟や新移住者のための初等教育の道を完備し、行々は中学校、高等女学校等をなるべく本学に縁のある人々の手で開設し、学校町の体裁を整へたいと、これは個人的にだが、考へて居る。
もっとも憂慮に堪へぬのは、土地が俄に開けるのに伴って色々の如何はしい営業者の入込むことである。これについては経営者なる土地会社とも相談し、その筋とも連絡を取って、完全にその進入を防止して貰ふつもりである。
娯楽機関は勿論結構、沢山開いてほしいが、但しこれも大学都市にふさはしい上品なものを心掛けて貰はねばならぬ。
理想的の大学都市は、理想的の高尚な住宅地に囲まれてこそ初めて実現せられるのである。
・ 佐野泰彦氏の手記
国立学園小学校は、商大の先生たちが国立に移住することを促進するために、父善作が箱根土地に依頼して設立したものです。即ち設立資金は箱根土地が出し、初代校長山本丑蔵氏以下先生方の人選・招聘は全て父が行ったものです。
商大の国立移転については、教授連からの反対が強く、まして自ら国立に移住する人は極めて少数でした。
資料をカバンに入れると同時に、重い瞼がふさがった……
国立キャンパスは秋日和で、景色も人ものどかだ。学生よりも一般の人が多い。休日なのだろうか?
広場の噴水のところで兼松講堂を背景に記念写真に収まっている人たちがいる。
前列の椅子席真ん中の和服姿が佐野善作だ。カイゼル髭に威厳がある。右手に黒光りのする杖を握っている。杖には蛇が二匹巻き付いている。
両脇に福田徳三と関一が座っている。こちらは背広・ネクタイで、彼らも立派な髭をたくわえている。三浦や堀も見える。
向かって左端に座っている和服の女性は、佐野夫人だ。脇に小学生の制服姿で立っているのが泰彦坊やだから。夫人に何か注意されたらしく、すねている。
後ろの立ち席は、高垣たち若手教授陣らしい。
何の記念撮影だろう?
三脚を構えて、フードをかぶったり、被写体の教授たちを往復したり、弟子に細かい指示を与えたりで忙しい初老のカメラマンは? 伊東忠太博士! ベレー帽に開襟シャツで、ひとり額に汗している。
学生服の弟子は? 須賀五郎次だ! 要領得ずに右往左往。
先生方は早く終えたい様子だが、博士はなかなかシャッターを押さない。
講堂の真上は、雲行きが怪しくなった。と思う間もなく、暗雲から大粒の雨が矢玉となって襲いかかってきた。
ムソルグスキーの曲『禿げ山の一夜』が奇妙な音色でおどろおどろしく雲間にこだまして、嵐の中に物の怪の世界が広がっていく……。
ファサードの四神たちの目がギラリと光った。玄武、朱雀、青龍、白虎、それぞれ豪雨をまともに受けながら、レリーフからのそりと出て、動きだした。くぐもった声で唸りを上げたり、炎の目で何物かを待ち受ける格好をしはじめている。たれ込めた雲をつんざいて、鋭い稲光と雷の轟音。
講堂内部から玄関へ、なんと忠太オリジナルの獰猛な怪獣・妖怪どもがぞろぞろ這い出て来た。……得体の知れない化け物がこんなにいたのか!
側壁のロマネスク怪獣たちも蠢きだしている。雨中、三つ巴の怪獣戦争? 大変なことになった!
先生方はなぜ気づかないのだろう? 目と鼻の先で、嵐と唸り声がこんなに激しくなっているのに! 散策を楽しんでいた人たちは? いない! 忠太博士は? まだ撮影に夢中! そんな場合じゃないでしょう! 須賀先輩! 早く、早く! 何とかしなければ…………
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