須賀は冷めかけた茶をすすり、芋羊羹をつまんでから、
「また回り道してしまったね。そう、四神会≠ノついて話したかったのだ」
バツ悪そうに先ほどの短い年表にチラリ目をやって話を戻そうとする。
「やっとね。どうしたのかと思っていたわ」
マリは作り笑いでうながす。
几帳面な老先輩のこと、ちょっとしたメモを三人に配る。
大正八年(一九一九)、端艇部(現ボート部)OBの会が正式に名称を「四神会」とした。
その三十年前の明治二十二年(一八八九)、彼らが自前のボート四艘を建造して、玄武、朱雀、白虎、青龍と、中国発祥の四神の名を冠した。
OB会の彼らは、端艇部のみならず高商全体の屋台骨で、当時から資金源にとどまらず、闘魂・不屈の精神を直伝してきた。
「これ、本筋とは縁遠いようだが、兼松講堂ファサードの四つの紋様に関わってくることなのでね」
と、老人は苦しい弁解ではじめようとする。
恵理子はそれを察してか、美術史年表を見ながら話題をそらす。
「ボート四艘を造った明治二十二年は一八八九年だわね。パリにエッフェル塔が出来た年よ。この年開催されたパリ万博を記念して、エッフェルの会社が建てたとあるわ。出来立てのときは評判よくなかったようね。いまではパリの象徴だけど。そして、ゴッホがその年有名な『糸杉』と『パイプをくわえた男』を描いてるわ……」
年表にある絵のところを三人に見せる。絵の苦手な津船はともかく、マリのうんざりした表情は和らぐ。
老人は恵理子の合いの手に、感謝の笑みを浮かべながら言う。
「少なくとも、この四艘のボートが隅田川に浮かんだときから、『四神』が、端艇部だけではなく、全校の守護神になったといってよい。だから、その年から数えて二十年後の大正八年(一九一九)に、端艇部のOB会を『四神会』と名付けたのは、自然の成り行きではないか」
さらに続く話も、老人が手渡した資料にこうある。
「四神会」発足の翌年に東京高商は東京商科大学に昇格。
初代学長には、政府の横やりをはねつけて、生え抜きの佐野善作校長が任命される。渋沢翁、大倉翁が陰の功労者か?
佐野は学長になると同時に端艇部長を兼ねる。
『歴代端艇部長』 |
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初代 |
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関 一 (明治三十六年ー大正三年) |
二代 |
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志田ナ太郎 (大正三年ー八年) |
三代 |
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福田徳三 (大正八年ー九年) |
四代 |
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佐野善作 (大正九年ー昭和二年) |
以降、昭和二十四年まで、
高垣寅次郎、井浦仙太郎、上田貞次郎、
高瀬荘太郎、中山伊知郎 |
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「端艇部長を初代学長が兼務ですか。この意味は大きいですよね、先輩」
後輩の声がまた大きくなる。老先輩はうなずきながらこう言う。
──この兼務決定は、前任の福田教授が『端艇部長は学長がやらなきゃダメだよ』と、自分は下りて強引に引き受けさせた結果らしい。
福田は慶應義塾から復帰するや部長を引き受けたほどで、今もって端艇部育ての親と云われている。──
再び先輩・後輩の内輪話に戻りそうな展開に気づかず、津船が、
「佐野学長とボートと四神会……なるほど!」
自分で勝手な方程式を作ってうなる。老先輩も我知らず、顔をほころばせてこう続ける。
──端艇部は、当然ながら、勢いを増した。明治二十年の初戦以来三十年以上も負け続けてきた宿敵東京帝大に、東京商大クルーは満を持して挑むことになる。
そして大学昇格翌年の大正十年に隅田川のレガッタで初の優勝を遂げた。それも第二回インカレという晴れの舞台、東京帝大をはじめ九大学参加の堂々たる大会だった。──
学生時代はコックスでならした須賀老のこと、頭はその頃にタイムスリップしたか、ここは舌足らずの台詞にジェスチャー入りで、おどける。マリはようやく屈託なさそうに、小声・手拍子で応援の仕草をする。
「『玄武号』が颯爽と先頭切ってゴールイン! ほかの八校は、まだゴール前でデッドヒートよ。商大応援席の熱狂──!」