「ところが設立のすぐあとで、森が特命全権公使として、北京へ派遣されることになる。やむなく森は渋沢に頼み込んで、東京会議所に委託した。翌年やっと校舎が京橋
木挽町に完成するのだが、今度は東京会議所解散の憂き目にあい、渋沢のごり押しで東京府に移管される。このように、発足当初から矢継ぎ早に受け皿交代の憂き目にあう」
この辺までは津船、恵理子ともに承知している。が、初参加のマリには判じ物だ。
かまわず須賀は、
「この誕生期なのだがね」
と言葉を区切って、
「渋沢栄一と森有礼はともかく、福沢諭吉が深く絡んでいるんだね。少し彼に触れておきたい」
「諭吉?」
マリが顔を上げる。思ったとおりと言わんばかりに須賀老は説明する。
江戸時代末期の安政五年(一八五八)、福沢諭吉は二十三歳で、慶應義塾大学の前身である〝蘭学塾〟を江戸鉄砲洲に開いた。その彼が後年(四十歳)、商法講習所設立の建白書『商学校ヲ建ルノ主意』を起草する。
それによると──
『今日ニ至ルマデ全日本国中ニ一所ノ商学校ナキハ何ゾヤ。国ノ一大欠典ト云可シ。
凡ソ西洋諸国、商人アレバ必ズ亦商学校アリ。武家ノ世ニ、武士アレバ必ズ亦剣術ノ道場アルガ如シ。
剣ヲ以テ戦フノ時代ニハ、剣術ヲ学バザレバ戦場ニ向フ可ラズ。商売ヲ以テ戦フノ世ニハ、商法ヲ研究セザレバ外国人ニ敵対ス可ラズ』
「カタカナ交じりだけど、わかりやすいですね」
津船がしたり顔で言う。須賀はここで終わらせず、
「もう一人」
とマリに向かって、もったいぶった風に、
「勝海舟なんだがね」
「海舟? 勝麟太郎でしょ。彼になにか関わりでも?」
話の筋がまだ半わかりのマリが、けげんそうに言葉を返す。
西郷隆盛と単身交渉の結果、江戸城の無血開城で幕府の統治を終わらせ、明治維新に導いた人物のことだ。その八年前の安政七年(一八六〇)に、勝は咸臨丸の船長として太平洋を横断して、アメリカへ渡った。
このくだりはマリも承知しているから、
「あのときは船酔いで苦労したそうじゃない」
と合いの手を入れる。
須賀はわが意を得たとして、話によどみがない。
「福沢諭吉や通訳のジョン万次郎らが随行しているね。ペリー艦隊が浦賀に来てから七年後だった」
ペリー艦隊と聞いて、今度は津船がおどけて知識の受け売りとなる。
「『泰平(太平)の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も寝られず』でしたよね」
この横道がマリに一息つかせる。恵理子もまんざらではなさそうだ。
老人は続けて、
「その勝海舟が、面白いことに当校の誕生期に大いに関わっている。それも商法講習所創設のときから」
そう言って、三人の異な顔を見回しながらメモに目をやる。
商法講習所は創立にあたり、米国から、簿記の権威であるウィリアム・ホイットニーを招聘した。
ホイットニーは家族同伴で来日したが、こちらの待遇は約束と違って、生活費にも事欠くようになる。そこで海軍卿の勝が、彼ら一家の生活費はもとより、なにからなにまで面倒を見ることになった。海舟、御歳五十二歳。その手厚い援助は語り草になるほどだった、という。
「そんなことでね、しばらく年がたって三男の梅太郎君がホイットニーの娘クララさんと結婚することになるのだよ。二人のおかげで海舟先生は青い目のお孫さん六人に恵まれる、というおまけがつくわけだ」
マリの感心しきった顔つきに、
「実は『クララの明治日記』というのが残っていてね、そこに書かれてある」
と付け足す。さらに、
「蛇足を一つ、さっきの津船君ではないが……」
と、得意の寄り道だ。
「晩年、新政府より〝子爵〟の内示を受けたときのことだが。彼はこれを気に入らない。で、『今までは人並みの身と思ひしが五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは』の歌とともに突き返した。慌てた政府が〝伯爵〟に格上げした、という話も残っている」
老人も自分のセリフに酔っている。
座がくつろいだところで、
「……まだ功労者がいろいろ出てくるのでしょ?」
と津船が次を催促する。
「渋沢の盟友ともいえる大倉喜八郎を忘れてはならないし……」
「ホテルオークラを設立した方でしょう?」
とマリ。
「いや、オークラは彼の長男喜七郎がつくった。昭和三十三年(一九五八)だから、そんなに昔ではないね」
須賀はそう言って、父の喜八郎を簡単に紹介する。
ホテルオークラ開業の約七十年前の明治二十年(一八八七)に帝国ホテルが設立されたが、これは喜八郎が渋沢栄一と共同でつくったもの。喜八郎翁も渋沢と同じで、明治・大正期の大実業家だった。大倉財閥を成して、今で言う大成建設を興し、サッポロビールや日清製油、東海パルプといった各方面の会社設立にも関与した。靴のリーガルもしかり。後年には、東京経済大学の前身である大倉商業学校を創設している。商法講習所創設の二十五年後で、明治三十三年(一九〇〇)、喜八郎六十三歳のときだった。
「渋沢栄一とよく似てますね、実に」
津船は感心するが、
「財界を引っ張った渋沢とちがって、喜八郎は政商としても財を成したと言われているだけに……」
と須賀は言葉を濁す。
「彼は伊東忠太の建築物のパトロンとしても有名だし、いろいろあるのだが……」
言い足りなさを承知で、大倉翁のことはここで一区切りつけたいようだ。
「他には?」
津船がまた急かす。須賀はそうだね、とあいまいな返事で打ち切る。
「商法講習所は、森の私塾から東京会議所へ、そのすぐあとの明治十二年には東京府に移管されて、府の公立ということになるのだが……それからがもっとよくない」
舞台回しをしたつもりでご老体がそう言いかけると、
「なぜ……?」
恵理子と津船が口をそろえる。急ぎすぎ、と言いたげだ。
「東京府はね、渋沢に厄介者を押し付けられた感が強かった。財政に窮していたこともあろうが、はなから『当校の予算を半額削減する』でしょ。二年後の明治十四年には『東京府には商業学校は無用の長物』だと、今度は予算の全額否認。続いてその年七月、府知事が『講習所廃止』を公表して、一時廃校になってしまう。渋沢らが懸命に運動を展開した功によって、二ヵ月後の九月に今度は政府の補助金で再開することになるのだがね……」
マリにはややこしくなってきた。混乱を隠しようもなく、目も虚ろ。湯飲み茶碗をもてあそんでいる。須賀老はそれに気づいた様子もなく、お構いなしに続ける。
「明治十七年に政府の農商務省に移管されて、東京府と縁が切れるのだが、それまで府のやり方はひどかったようだ。校長の矢野二郎が私財を投げ打ったりしたとある。東京会議所会頭だった渋沢の後ろ盾でかろうじて息をつなぐのだが。東京府はここでやっと厄介者を追い払ったわけだ」
「農商務省ですから、今度は国が受け皿になったということね」
恵理子が、出来立てのコーヒーを次々とカップに注ぎながら、口を添える。酸味の利いた芳りが漂う。
マリはおあつらえ向きと、早速彼女用のマグカップに両手を添えてすすっている。
「そういう流れで国立ということになったのだが、まさに名ばかりでね」
須賀老は味わうようにコーヒーをすすって、ひと呼吸する。頭は自分の世界の中で、マリの混乱した様子にまだ気づかない。
「まず、翌年の明治十八年に政府内の利権争いの具となって、管轄が農商務省から文部省に移るでしょ。校名も、東京商業から高等商業、東京高等商業と、くるくる変わる。がその実、〝官立〟一辺倒の文部省からは継子扱いにされるし、何年にも亘って天下り人事の対象になってきた」
本人は大まじめで、津船と恵理子には通じているようだが、マリは退屈をあらわにして、今度は所在なげに空っぽのマグをいじくっている。
「そんな中で、史料館の資料にあったとおり、毎年の卒業式に渋沢栄一が列席して、祝辞を述べられた。高商第一回卒業式の明治二十二年(一八八九)から大学昇格の大正九年(一九二〇)までだけでも、三十年も続いている」
「ずいぶん熱心だったのね。感服よ」
相づちする恵理子に対して、マリが唐突にひとこと言う。
「渋沢栄一はよく知ってるわ。この前テレビで特集番組をやってたわよ! 易にも詳しかったのよね」
易は彼女の趣味でもある。須賀老はやっとマリの興味なさに気づいたようだ。
が一応の区切りまで来たとの思いで、頬をゆるめながら、
「ざっとこれが創立から、明治四十二年に起きる申酉事件の前夜までだ。マリさんにはごちゃごちゃして申し訳ないが」
と、香りの失せたコーヒーを無造作に飲み干した。