帰りがけ、津船の高校同輩が館長を務める隣りの紙の博物館に立ち寄る。同輩の懇切な案内で見学している間に、荒天はほぼ治まっていた。
王子駅に着いて、階段を上るとすぐ電車が来た。
「ビールでも飲みながら、反省会をしたいのだが」
東京駅で別れかける津船を須賀が制止する。六時を回ったところだ。
丸の内側に出る。ロータリーは濡れているが、台風一過で、夕空に晴れ間が見える。駅隣接のビヤホールに入る。
乾杯して、枝豆をつまむ仕草はいつもと変わらないが、須賀の心には史料館の余韻が蘇っているようだ。
「佐野学長があれほど渋沢翁と親しかったとは、……。大事にしてもらっていたのだね」
須賀はバッグから史料館でコピーした書類のうち心当たりを取り出す。
「近代日本を築いた渋沢翁がわが校に関わった一つのエピソードだが、いい資料が見つかったよ」
と、ページを開いて、
「昭和六年(一九三一)にややこしい事件が起きてね。佐野学長の辞任騒動だ」
その数年後に白票事件という学園騒動が起き、佐野はここで学長を辞めることになるのだが、それとは違うようだ。
「白票事件のことはいずれ話すときがあると思うよ」
とだけ須賀は言いおく。
「この辞任騒動は、国立へのキャンパス移転が完了して、記念式典が行われた年じゃなかったですか? 昭和六年ですから」
後輩が、ノートの年表を確かめながら言う。
「そう、式典の直後なんだ」
老先輩はうなずいて、
「この年には大きな出来事が次々と起きている。まずは君の言う国立キャンパスの完成式典だ。図書館や本館は前年に出来上がっており、兼松講堂の完成は四年前だった。そして年初に道路を隔てた東キャンパスの校舎や、残った全てが完了し、その五月に国立新キャンパスの全面お披露目ということになった」
「次いで」と、メモ帳を繰りながら、
「半年後の十月には『籠城事件』が起きている。私が入学したのは五年後の昭和十一年だが、この事件、その頃でもまだ余韻が残っていたほどの大変な出来事でね。津船君には概略話してあるが」
「はあ……」
後輩はさえない。
「籠城≠ニは、少し大仰なのでは?」
恵理子の問いに、
「そうなんだ」
須賀はビールをゴクリあおってから、ざっとこう話す。
当時の日本は大恐慌さ中で、政府は緊縮政策をいいことに、商経教育不要と、商大潰しにかかった。申酉事件の蒸し返しである。表面上は本科を残し、予科と専門部の廃止ということだったが……。
それに抵抗して全校二千人の学生が神田の旧校舎に立てこもった。それが四日間の徹夜籠城となって、日本中に知れ渡った。
「そういうこと──」
初耳の恵理子が吐息まじりに目を輝かせる。
「教授やOBも一丸となり、世論も学生に味方した。対する政府は強圧的な姿勢を崩さない。事態はもつれにもつれて、怪我人や逮捕者が続出する始末だ……」
恵理子の理解を超えて、先へ行こうとする須賀に、
「ちょっと急ぎすぎじゃないですか? 先輩らしくないですよ」
津船が抗議する。経過が重要だったのでは、と言いたげである。
須賀は毛のない頭を撫でながらも、
「この事件も機会を見つけて詳しく聞いて欲しいと思っているのだが、起きた時期としては兼松講堂完成の四年後だから、当面の課題に直接の関わりはないといってもいいのでね。今日はこのくらいにさせてもらおう」
と言って、こう付け足す。
「その三十年ほど前の申酉事件のほうは、兼松講堂建築に至る流れに深く関わっているはずだから、日を改めてぜひ聞いてほしい。いまは渋沢翁関連ということで……」
「籠城事件も覚えておきますよ」
恵理子が念を押した。
「その昭和六年だが」
と、須賀老は佐野善作学長の辞任騒動に話を戻す。武蔵野・国立へのキャンパス移転式典の数日後のことで、籠城事件の四ヶ月前に起きた。
佐野が突然政府に学長辞任を申し出たのだが、理由がポケット本の『大学年譜』にこう記されている。
『図らずも六月二十日の一般新聞に共産党事件の記事が報道され、次男の起訴が明らかとなり、道徳上の責任を感じ、学長として学生訓育にあたる自信を失ったので、翌日辞表を文部大臣に提出した。』
「佐野さんとしては、関東大震災による神田の全校舎壊滅を陣頭指揮で乗り越えて、国立に新キャンパス完成の大事業をやっと成し遂げたときだった。無念さは例えようもない……」
ご老体らしくない表現だ。
年譜≠フ『共産党事件…次男の起訴』は、当時の治安維持法に関係している。
同法は、元々関東大震災後の混乱を抑えるために公布されたものだが、この出来事の三年前にはじまった共産主義思想の弾圧を鮮明にして、その後次のように強化改正された。
『国体の変革を目的として結社を組織したる者、又はその役員や指導者に従事したる者は、死刑又は無期、若しくは五年以上の懲役……』
須賀老は続ける。
「その時は、教授連や学生の大半が学長の辞任撤回を叫んだようだが、そんなことで自らすんなりあと戻りできるわけがない。佐野さんの意をくんだと勘ぐりたくはないが、腹心の堀光亀教授が老齢の渋沢翁の自宅へ押しかけて、相談を持ちかけた。佐野さん側にとっては命綱だったにせよ、翁としては迷惑千万なはずだ。にも拘わらず、翁は真剣に受け止められて、断らなかった」
「渋沢翁としては、佐野学長の問題というよりも、ご自身が最大支援して実現させた商科大学の存亡を危惧されたのでは?」
後輩の指摘に、
「そうとも思えるがね。ではあれこの一文は、渋沢栄一の人間を感じさせるね。九十一歳で、亡くなる半年前だった」
「お読みいただけませんか?」
恵理子が催促する。
「堀教授の文章だ。如水会会報の同年十二月号で、『青淵先生追悼号』になってるね。青淵先生は渋沢翁の雅号だ」
後輩が気をきかせて代読する。
学長辞任問題が起こった時、約一ヶ月間教授学生総がかりで留任を勧告したにも拘らず、学長が容易に首を振らないので、殆んど百計尽き、遂に渋沢翁を煩はす外はあるまいと、(中略)
学長の辞任は、令息の左傾事件に関連して居るのであるから、平素孔孟の教に忠実なる翁が、果して此問題に関与することを欲せらるるや否やも、不明であったので(中略)
一部始終吾々の報告を傾聴せられた上、
『佐野君は商業教育に於て志を同ふして来た私の友達である。今令息の一件で責を負ふて辞職を申出らるるに至ったは、一応御尤の様ではあるが、夫は言はば親子の私情である。
折角御互の主張に依て商科大学に昇格し、其学長の要職に立って今後大いに為すべき責任を持ちながら、一私情のために棄てんとするが如きは、公私混淆の甚しきものである。(中略)
能く其辺の事を説いて学長に留任を勧告してみやふと思ふ。
之は決して諸君の御依頼に依てするものではない。佐野君の一友人として自ら進んでいたすのだから其積りに願ひたい』(後略)。
この騒動の結末について、津船は『大学年譜』を追う。
『渋沢子爵及び田中文相から留任の勧告を受けていた佐野学長は、四囲の事情から到底引退はできないとして留任を決意、本日両者を訪問、留任の旨を告げる。
田中文相、若槻首相の諒解を求めて、辞表を却下することとなる。』
「これは渋沢翁最晩年の話ですよね。そこまで翁を煩わせなければならなかったのでしょうか?」
割り切れない表情の津船に老先輩は直接答えず、こう言う。
「渋沢栄一は、万事このような人物だったようだ。だから、政府も官界も彼の息のかかったところでは無茶なことはできなかった。翁は、良かれと決めたことはとことん面倒を見た」
一区切りついたところで、須賀老はビールをゆっくりと飲み干し、しばらく沈黙した。窓の外に目をやると、宵のロータリーに明かりが輝いている。駅の乗降客が、用のなくなった傘を手に行き交っている。
店にも客が入りはじめた。
三人の語らいは渋沢栄一の生涯にはいった。