3. 模索 2
 八月旧盆も過ぎた日の夕刻、須賀五郎次と四人が竹橋・如水会館三階のビヤガーデンに会した。ご老体と、津船良平、深海恵理子、祝田睦美、山辺みどりで、怪獣のはびこる講堂についての意見交換である。
 日脚は長くまだ暑いが、頬を撫でる風が心地よい。まだ宵の口、客はまばらで、ガーデン自慢のバーベキューもはじまっていない。
 睦美とみどりの情報提供もあって、須賀の頭は少し整理されてきた。で、今後の進め方を兼ねて、初の会合となった。須賀老と恵理子は鎌倉市の大船から遠路遙々(はるばる)だ。
 後輩の女性二人はといえば、睦美は同会館で別の催しに出ていたようで、華奢な躰にパーティ・ドレスでお目見え。口紅が濃い。三人の子持ちとはだれが想像しようか。
「こんな恰好で……」
 と恐縮してみせる。
 ふくよかなみどりは化粧っけのない顔に、いつもの鼈甲(べっこう)メガネで、ショルダーバッグが重そうだ。ビジネスでつながっている津船に微笑む。
 二人は恵理子と初対面だが、事情は知っている。売れっ子の画家であることも、須賀とのことも。にこやかにあいさつを交わした。

 五人がジョッキを手にしながら、しばらくはとりとめのない話に花が咲く。きりのいいところで、津船が「さて」と咳払いして本題に入る。
 皮切りは学園史で、草創期にさかのぼる。須賀老が毛のない頭を撫でながら、
「私が生れる四十年以上も前のことだが……」
 いつものらい落な噺家調だ。

 同学園(現一橋大学)は、明治八年(一八七五)、東京銀座尾張町に、後に初代文部大臣となる森有礼(ありのり)の私塾『商法講習所』として誕生した。来年が創立百三十周年になる。

 老いた噺家がそう言うと、
「先輩が関わった百周年の記念文集からでも三十年たつのですね」
 津船はそれら老先輩の所蔵をいつぞや譲り受けて、須賀文庫≠ニ名付けた真新しい書棚に飾っている。それぞれが大部で、三十冊は超える。

 学園の名は、その後、東京商業学校、高等商業学校、東京高等商業学校と、創立して三十年に満たない間に、次々と改称される。

「その間の出来事で、一つだけ先に話しておくと……」
 須賀老の改まった顔に、山辺みどりは小振りのノートを開いて、メモの用意をする。
「東京商業時代に、文部省の強権で東京外国語学校、現在の東京外大と合併した。明治十八年(一八八五)だ。この話になると、今も外大の連中に恨みがましく言われるのだが」
 津船はこの話聞いているから、女性たちの好奇な目を楽しんでいる。
「彼らの神田一ツ橋通りの校舎が、両校の合併に伴い、本館として使用されることになった。しかし、十数年たって再び互いに分離独立したときは、もともと彼ら所有の本館が相手校に属してしまい、自分たちは神田錦町へ引っ越しさせられた。合併にしても、外国語学校が商業学校に併合された恰好でね。校名は東京商業学校≠ェ引き継がれたし、校長もこちらの矢野二郎が就任した。彼らが今も『(ひさし)を貸して母屋を乗っ取られた』と嘆くのは、もっともなのだ」
 当時のぎくしゃくした経緯にも拘わらず……、と須賀はこう言い添える。

 その後外大・一橋両校の繋がりは密で、今日に至るまで教授間の交流、学生のサークル活動等が盛んに行われている。
 最近は両校の関係がさらに深まり、平成十三年(二〇〇一)に、東京医科歯科大学、東京工業大学も参加して、四大学連合を結成し、共同教育プロジェクトをスタートさせ、今日に至る。
 ともあれ、大学名一橋≠フ原点は、両校が一時合併したときのこの場所にある。

 恵理子がニコッとして、姪の野溝マリが東京外大出身だと言う。修得した語学・学問を仕事に大いに生かしているとも。津船は受験失敗の苦い思い出が浮かんでいるか。この外大を一年浪人して、結果的に一橋大に合格した。
 恵理子の発言を受けて、しばらくは外大関連の話になる。
 明治十八年の合併当時のことで、須賀は何か思い出したらしい。
「このときの副産物が端艇部、いまで言うボート部だ」
「それは?」
 祝田睦美が眉を上げる。アイシャドーの目がまばゆい。
「合併によって、両校の財産が共有されることになったのだが、その中に外国語学校のカッター一艘があった。帆走も出来る大型のボートだがね。これを隅田川に浮かべて、商業学校端艇部の発足ということになった」
 次いで制服・制帽の話だ。
「これもそのとき決まった」
 資料を辿りながら、ご老体は笑いをこらえている。
「それまで毎年行われていた寮歌祭では、東京商業は(しま)の羽織の着流しに、前垂(まえだ)れ掛けの商人(あきんど)姿≠ナ、外国語学校のほうは、兵児帯(へこおび)に破れ袴で浪人風のバンカラ姿≠セった」
 恵理子が即座に、
「東京商業の前垂れはわかりますけど、外国語学校のは愉快ね。ジャケットに蝶ネクタイならまだしも、ね……」
 えくぼを際立たせて言う。
 須賀老はニヤッとし、膝をポンと叩く。
「今も寮歌祭でどちらも登場するよ。僕は前垂れ姿だが、バンカラがうらやましい」
 次いでこう付け足す。
「それが合併を機に、文部省令でバンカラ姿は禁止され、代わって洋風が義務づけられた。散切り頭を叩いてみれば≠ナはないが、文明開化盛りの百二十年前のことだ。制帽の徽章(きしょう)はマーキュリーになっていた」
 横道を楽しんだか、須賀はジョッキで喉を潤す。枝豆にも手が行く。
 外国語学校とたもとを分かったあと、須賀老の話は途中を大きく素通りして大正期に入る。大学昇格から関東大震災を機に、兼松講堂建築へ向かっての流れだ。

「大学昇格を果たしたのは、創立四十五年後の大正九年(一九二〇)だった。外語との合併からでも三十五年後だ。それまでが、川治君の言う血涙奮闘≠ナ、旧帝大・旧制高校べったりの文部省との戦いだった──」
 オーバーで身びいきめいた表現に津船は目を伏せるが、それを察したのだろう、
「このくだりはいずれ聞いてほしいと思っている」
 と述べるにとどまる。
 睦美がドレスを気にしながら、身を乗り出すように足を組み替える。香水の甘い匂いが津船の鼻をくすぐる。
 須賀の話は先へ進む。
「その年、東京高商から東京商科大学に昇格し、高商校長の佐野善作が初代学長に任命された。彼は生え抜きでね、それまでの校長はほぼ全て天下りだった」
 言いながら須賀は、歴代校長一覧表を見せる。二代目の矢野二郎が去ってから、八代にわたって天下りが続いている。
「大学昇格数年を経ずに関東大震災が起きて、神田の全校舎が壊滅した。その災厄を逆に活かして学長の佐野を中心に武蔵野への移転を決め、北多摩郡の谷保(やほ)村に学園都市造り、国立キャンパスの建設……ということになった」
「それぞれの説明は?」
 恵理子の念押しに、
「もう少しその後を辿らせてもらおう」
 と断って、そのまま続ける。
「キャンパス移転に関わる一連の事業が全て終わってから、四年後の昭和十年(一九三五)に白票事件≠ェ起きることになる」
 同窓でない恵理子はともかく、後輩の三人も反応は鈍い。須賀老はそれを理解した面持ちで、
「この学園騒動についてもいずれ話すときが来ると思うが、いわば学園史の恥部とでもいうか…」
 と、渋面でこうかいつまむ。

 生え抜きはよしとして、このとき佐野学長の在位は高商校長当時から数えて二十一年間に及んでいた。
 その昭和十年の博士論文審査で、革新的な助教授の論文を問題ありとして、取り巻きの審査員に白票を投じさせ、不合格とした。
 これが学生運動の火付けとなって収拾がつかなくなり、自らを辞任に追い込んだ。

 須賀自身その翌年の入学というから、少しは生々しい思い出もありそうだ。が、この場は寸足らずのまま切り上げる。

 日は暮れかけて、丸テーブルに立て掛けたパラソルはもう用済みだ。水玉の覆い自体が影絵となって、宙に浮かんでいる。そよ風が影絵をなでていく。
「佐野学長があまり表面だって出てこないのは、この事件のせいなのよね?」
 訳知り顔の睦美に老先輩はうなずく。次いで思うところありそうに、彼女から先日受け取った資料を取り出す。
「川治君が論文で触れている三浦新七先生についてだがね」
 四人とも待っていた話だ。
「三浦先生はね、佐野さん辞任のあとを引き受けて学長になった。彼はその八年前の、兼松講堂が完成した昭和二年(一九二七)に、教授を辞して故郷の山形へ帰ってしまっているから、出戻りなんだ。向こうへ帰った理由は、親の代から経営に関わってきた山形銀行が破綻しかかり、立て直しを託されたことによる、と言われている。銀行の再建には存分に力を発揮されて、その後頭取の職にあった。それが昭和一〇年になって、突然学校からの懇請で呼び戻され、学長後任として白票事件の後始末にあたることになる」
 須賀は一気にしゃべっていく。電灯がともって、一瞬ガーデンが大写しになった。パラソル毎の丸テーブルはそこそこ埋まっている。
「彼も高商生え抜きで、佐野さんより四歳若い。卒業後九年間、ドイツに留学している。商学研究が主目的だったが、文明史にも深く傾倒して、帰国後は、母校で教授として『西欧の経済史、文明史』を担当された。銀行再建で山形に帰るまでおよそ十五年間教鞭をとっていた──」

 続いて四神像への繋がり……、後輩たちはそよ風をよそに、真剣な目付きである。
「三浦先生は中世ヨーロッパ文化に詳しいから、私も先生を伊東忠太に結び付けようとした。二人とも同じ山形県出身だし、年齢(とし)もさほど離れてない。兼松講堂をロマネスク様式で造ってほしいと提案したのも、ファサードのマーキュリーとその下三連アーチの怪獣たちをそこに取り付けるようにお願いしたのも、三浦先生だったとすれば、筋が通るじゃない」
 睦美は、自分が川治啓造の論文を紹介した手前、満足げだ。
 が須賀老は、得意の迂回癖か、とぼけているのか、焦点が定まらない。
「三浦先生は学長を一年しかやっていないのだ。白票事件を何とか収拾したあと、すぐ、ウエテイさん(上田貞次郎教授)に要職を譲ってしまった。学長を引き受けたときから火消し役≠ニ公言されてはいたが……、短すぎると思わない?」
 ご老体はこだわった言い方をする。
「その後も三浦さんは、名誉教授としてずっと教壇には立たれたが……」
 と、まだ横道に留まって、自身の思い出話を添える。
「僕たちは本科に進んでから、先生に『文明史』を教わった。銀髪の紳士でね。非常に厳格でまじめな方だった。先生の葉巻好きは有名でね。休憩時間によく吸っておられた。廊下か広場に出て、ケースからハバナを一本取り出す。マッチをすって葉巻に火をつけ、旨そうにぷかりと吹かす。しばらく目を細めて、ゆらぐ煙の行方を見ている。その仕草が決まっていた。それでずっと吸われるかと思うとそうじゃない。ほんの少しだけ吸ってすぐ灰皿に捨てられる。僕たちの物欲しそうな顔を見て、たまたま私に『君、吸ってみるかね』と言われたときは天にも上る気持ちになったよ。その日から、講義の休憩時間が楽しみでね。みんなで先生の格好を真似て、回しのみしたものだ。といっても、煙りに(むせ)びながら、ぷかぷか吹かすだけだったが」
 風がまた、バラの香のような淡い香水の匂いを乗せて、津船の頬を撫でた。

 一同静かに耳を傾けているが、内心もっと突っ込んだ話を期待している。
 そのことに気づいたか、
「三浦先生と伊東博士の接点を裏付けるものはなにも見当たらないのだ。心当たりの文献や関連資料を自分なりに調べてみたのだが……」
 須賀の本音が出る。が終わらないうちに、睦美が笑顔を消して食い下がる。
「でも、川治さんはお二人の関係を強く主張なさっています。説得力も十分ですわ。山形のめぼしい所を訪ね歩いて、調査もなさったそうよ」
「で、確証にたどり着いたかな?」
 そこが睦美の痛いところだ。矛先が鈍って、瞳がしばたく。
「私も祝田さん同様、川治君に同調したいのだが……」
 須賀も決め手がないらしく、冴えない。
「だから、このまま二人を結び付けてしまうと、独りよがりの夢想になってしまう」
 津船は、まとまりのつかない様子で、
「証拠がなくても説得力がありますし、確かな反証もないのでしょ? 今後も、それ以上納得の出来る証明がなされるとは思えませんし……」
 須賀は首を横に振りながら、ゆっくり持論を出す。
「都合のいい理屈のほうに事実を持って行くような短絡はしたくないのだよ。それに、一つ気にかかるのは、学長の佐野善作と三浦さんは仲が悪かったということだ。だから、佐野学長在任の間、三浦さんは実力相応に重用されたとは言えない。関東大震災のあと、壊滅したキャンパスの復興委員会には一応名はあるがね。それかあらぬか、伊東忠太博士に講堂建築を依頼した際に、三浦さんの考え方が表立って出ていない。昭和二年の春、講堂完成を目の前にして山形へ帰ってしまった背景には、こんな事情も少しは関係あるのじゃないかと勘ぐりたくもなるのだ」

3.模索ー2の朗読 23’ 01”
< 模索ー1 3.模索ー3 >
目次、登場人物  9.大震災 (1-2)
1.オールド・コックス (1-3)    10.武蔵野へ (1-2)
2.怪獣 (1-2) 11.集古館 (1-3)
3.模索 (1-3) 12.建築者 (1-3)
4.追う (1-4) 13.ロマネスク (1-2)
5.史料館 (1-4) 14.四神像 (1-3)
6.黎明期 (1-3) 15.籠城事件
7.申酉事件 (1-3) 16.白票事件 (1-2)
8.商大誕生 (1-2) 17.堅い蕾
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