東京大手町が摂氏四十度超を記録したその年(二〇〇四年)七月下旬の一日。
須賀五郎次、深海恵理子、津船良平の三人が、国立市の一橋大学キャンパスを訪れた。兼松講堂と怪獣たちの調査開始だ。
ここも暑さは同じ。西正門を入ってすぐが緑の広場で、ま向こうに時計台の図書館、右に兼松講堂、左に本館が配されている。武蔵野の面影を残す周囲の木々は鬱蒼として、ここだけは涼しげな緑陰を作っている。
本館で施設課長が、小冊子にまとめた資料を用意して待っていた。須賀の要望を受けて、自身の考えをまとめたようだ。
「後ほどじっくり見学していただくわけですが」
と前置きして話した。
──兼松講堂は、昭和二年(一九二七)十一月に完成しました。今から八十年近く前ですね。図書館と本館は、三年後の昭和五年でした。
──東大の安田講堂、早稲田の大隈講堂、慶應の三田図書館といった当時の代表的な大学建築物は、十二~十四世紀に中世ヨーロッパの教会建築で主流だったゴシック様式に基づいています。それに対して、同時期に建築した当校の兼松講堂だけが、ゴシック様式より一世代古いロマネスク様式で造られています。わざわざゴシック建築より稚拙といわれる建築様式を採用しているのです。
──技術的にいっても、建築構造の進化・洗練といった観点からも、ゴシックの有利さは歴然としているのに、それを知りながら、なぜロマネスク様式にこだわったかと言いますと、〝正体不明の怪獣〟を数多く取り付けたかったからに他なりません。
──ゴシック様式はキリスト教そのものの建築様式ですので、聖書を冒涜するような妖怪・怪獣は受け付けません。ですので、やむなくその前のロマネスク様式に落ち着いたのです。
──ロマネスク様式は、まだ特定の宗教、とくにキリスト教の影響を受ける前で、怪獣等の陳列を比較的素直に受け入れています。ではなぜそんな怪獣を数多く取り付けたかですが、それは、兼松講堂の設計・建築が、〝伊東忠太〟だったからです。彼が自分で創作した怪獣をふんだんに陳列するために、ロマネスク様式を採用したのです。
──程度の差こそあれ、彼が手がけた建築物に怪獣のないものはありません。彼は山形県の出身で、座敷わらしや精霊信仰の古い伝統の中で育ちました。幼少時代から生涯にわたって化け物を描き続けたそうです。
──なかでも、兼松講堂はお化けや怪獣が異常といっていいほど多いのです。外部はヨーロッパ・ロマネスク調ですが、内部は〝忠太オリジナル〟と言われる、得体の知れない妖怪・怪獣だらけです。
施設課長の話は、資料を前に三十分ほど続いた。
須賀老は、途中表情を変えるところもあったが、質問も意見も差し挟まなかった。ややこしくなると考えたのか、自身の論拠が乏しいためか、推し量りようがない。施設課長も、独自の調査でそう結論づけたのか、東大開田教授の説を踏襲しているのか……。津船は、こうした点でもっと突っ込んだ話し合いを期待していただけに、不満が残った。
部下の案内で、三人は講堂の内部・外部を精力的に調べまわった。とくに内部は圧巻だった。二階から地階に至るまで、ホールもラウンジも各部屋も、天井やシャンデリア、置き台は言うに及ばず、壁という壁が、無数の奇妙な化け物で溢れんばかりである。各所の階段は、どう猛な怪獣が牙を剥き、大口を開けて、手すりを吐き出している……。
津船はくまなく撮影した。デジカメは便利だ。気がつくと二百枚ほど撮っていた。
恵理子は怪獣群を手持ちの美術図鑑と見比べながら歩を進める。立ち止まっては首を傾げたり、うなずいたり、何かとメモしている。
須賀老人も忙しい。二人に詳細指示したり、案内人に質問をぶつけたり……、杖を頼りの猫背をいとわず、気づいたことをノートに書き込んでいく。
外は四十度の炎天下、タオルで汗を拭き拭き、日射しを避けながら外壁を一周する。要所要所でロマネスク調の怪獣たちがにらみをきかせている。
隣の図書館と真向いの本館も併せて調査した。
「講堂とはちがいますね、両方とも」
津船の感想に、
「こちらは伊東忠太以外の方が携わったようね。建物だけではなく、絵も彫刻も……、そうだわ、きっと」
恵理子が同意をふくらませる。
なるほど両館とも怪獣は散見したが、どことなく趣が異なる。図書館内部のステンドグラスに描かれたカラフルなロマネスク怪獣を除いて、特記すべきものはなかった。
……数時間が過ぎていた。
ジリジリする猛暑さ中の作業だった。時間の大半を費やした講堂では、内部はエアコンで快適ではあったが、外壁やファサードの調査は、したたる汗との格闘でもあった。恵理子は化粧っけのない顔に、忙しなくハンカチをあてる。須賀は木陰に身を寄せもしたが、最後まで二人を先導した。質問に答えたりアドバイスしたり、じっと立ち止まっては、対象物を眼底に焼き付ける。休む暇はなかった。
五時過ぎて、夕焼けを背に長い影を落とす兼松講堂をやっとあとにした。
三角屋根の国立駅で東京行き快速電車に乗る。三人とも座席でしばらくは無言。津船は目を閉じる。電車の揺れが心地よい……。
新宿を過ぎたあたりで、須賀が出し抜けに津船を起こす。
「君、今日は何もないんでしょ?」
「……?」
「では、反省会をしなければ」
八十五歳がすぐそこの、杖を手放せないご老体が…元気だ。
東京駅からタクシーで竹橋・如水会館へ。三階のビヤガーデンで落ち着く。ビールの喉越しもそこそこに、
「さて」
須賀老が一日を振り返って熱っぽく話しだす。一時間ほど前の疲れた顔は嘘のようだ。二人も負けずに応酬する。
議論は、〝兼松講堂=伊東忠太=ロマネスク様式=怪獣跋扈=四神像〟のパズル合わせに終始した。
『四神像』の存在を除けば、開田教授や施設課長の言う〝兼松講堂は伊東忠太の趣味の産物〟ということで、概ね辻褄が合う。
が……、当時の東京商大側は、何の意見も言わず要望も出さず、伊東博士の好き勝手に全面委託したのだろうか? ではあったとしても、伊東博士自身が、そんな学校を相手に、趣味におぼれ、自らの貴重な時間を犠牲にして、自校の安田講堂や早稲田・大隈講堂の向こうを張る気になっただろうか? それも講堂を怪獣だらけにすることで?
そして、自身の作とは思えない奇妙な『四神像』が、なぜ講堂の看板といえるファサード上部を飾っているのか?
その日のまとめはこういうことになった。
一. 兼松講堂は、図書館及び本館とは、構造・設計者・考え方の、いずれもちがうようだ。講堂はロマネスク様式で造られているが、図書館と本館ははっきりしない。講堂が兼松商店の寄贈で、他は政府予算によることも関係しているか。
少なくとも、両館ともに、講堂との景観のバランスを崩さないようにとの配慮は感じた。
二. 講堂の怪獣は三種類に分類できる。主として外壁の〝ヨーロッパ・ロマネスク調〟と、内部全てにわたる〝伊東忠太オリジナル〟と、ファサードの〝四つの紋章〟である。
三. 講堂内部は、伊東忠太が自作の怪獣をふんだんに取り付けて、面目躍如である。外部はいざ知らず、内部は工事者まかせでなく、自ら深くタッチしたのではないか。
四. ファサード上部の〝四つの紋章〟を見ると、校章のマーキュリーはローマ神話に基づく紋様のようで、他は中国風の戯画レリーフである。四体ともロマネスク風ではなく、伊東忠太の作とも思えない。別の作者が別の意図で作ったに相違ない。
それらは、多少の無理を承知で、マーキュリーの二匹の蛇を蛇と亀が組んずほぐれつしている玄武と見立て、他の三体を朱雀、白虎、青龍とする、『四神像』と考える。
五. 四神像は単なる飾りではなく、自由・自治の殿堂たる兼松講堂の象徴となって、さん然と輝いている。講堂をしっかりと守っているようにも見える。
伊東忠太が講堂の設計を引き受けた動機が、自身の怪獣陳列だと言われるのに対し、一番見栄えのよいファサードの飾りが、なぜご自身の〝忠太オリジナル〟でもなく、ロマネスク様式でもない、〝洋風のマーキュリーと中国唐様怪獣〟の『四神像』なのか?
建築の総指揮をした伊東博士に特別の考えがあったのか? 博士にそうさせる何かが働いたのか?
…………
津船は帰宅後、施設課長の資料とともに、開田教授の講演録・対談集を念入りに読み返した。
翌日、メモを認め、須賀と恵理子にファックスした。
兼松講堂がロマネスク様式であることの理屈付けに関しては、施設課長の資料は、開田教授の説に基づいていると考えます。〝伊東忠太の設計であるため〟の総論も、個々の説明につきましても。
そう確信した結果、お預かりした各誌のコピーを広げて、開田教授の発言を読んでみました。私なりに目にとまったところを列挙します。
開田教授 『ファサード中央上端に大学のマークが刻まれ、その下の三連アーチの中に、龍、鳳凰、獅子の三つが控える……』
──(私見) ここでは各怪獣の図柄についてのみ、説明がなされています。校章のマーキュリーはともかく、他の紋様が何故三体なのか。そしてそれぞれが何故龍、鳳凰、獅子なのか。こうした基本的な疑問には触れていません。
開田教授 『近代にロマネスクをリバイバルした世界の建築家の中で、伊東忠太は、訳のわからない怪獣をつけた唯一の人である。兼松講堂の怪獣は、東洋、ヨーロッパ、そして忠太個人の三群よりなり、忠太の怪奇図像趣味の宝庫となっている』
──(私見) 視点が異なるからでしょうが、忠太の怪獣趣味だけが強調されており、私たちの言う『四神像』については、そういう発想なきゆえか、特別のご指摘はなく、単にマーキュリーをヨーロッパの怪獣、他の三体を東洋の怪獣で片付けてしまっているようです。
開田教授 『いざ造るときに、ゴシックで行くつもりだったのが、怪獣をつけたい一心でロマネスクを選んだものと思う』
──(私見) それが伊東博士の真意だったのでしょうか? 大学関係者や兼松商店という施主側の考え方はどうだったのでしょうか? また、仮に伊東博士ご自身はそうであったとして、依頼者たる施主側をどう慮ったのでしょうか?
開田教授 『忠太は、大学関係者には、怪獣については触れず、「確かに東大、早稲田、慶応、この三つの講堂は全部ゴシックですが、本当はロマネスクのほうがオリジナルですから」と言って、それ以上のことは避けた可能性がある。 (中略)
忠太がこの建物を設計することになって、「よしっ、ここはひとつ、怪獣をやってやろう」と、おそらくそういうことだったと思う。その証拠といっていいかどうか、外側の装飾にはヨーロッパに起源を持つ怪獣を使っているが、中に入ると忠太オリジナルの怪獣が満ち溢れている。さすがに外につけるのは躊躇があったのだと思う』
──(私見) 設計・建築責任者が天下の伊東忠太博士だったとはいえ、大学側も兼松商店も、〝怪獣の陳列を目的とする講堂〟を、盲目的に受け入れたのでしょうか? 忠太博士にしても、大学側をそのように言いくるめてひたすら自己満足を追い求め、勝手に自由気ままな制作をされたのでしょうか?
…………
建築学史の権威である開田教授の説に水を差すことになってしまうのですが、今回先輩にお供して講堂を詳細調査したときの印象とは隔たりを覚えます。
私たちの目的は、〝兼松講堂成り立ちの背景とファサードにある怪獣の真相〟追求に集約されるわけですが、教授は、その怪獣たちについては、それぞれの図柄のみに言及して、マーキュリー以外の三体を〝中国風〟とか〝東洋風〟と述べているだけです。わざわざそれらをファサードに取り付けた意味合いについては触れていません。
兼松講堂が、単に〝伊東忠太の怪物博物館〟で、そうするために建築様式としてロマネスク様式が採用され、忠太博士が、これ幸いと、自己の怪獣戯画・彫刻を心ゆくまで陳列した、と片付けてしまっていいものでしょうか?
学校側は、誇らしい殿堂の設計を託した伊東博士に、特別の要望や訴えかけはしなかったのでしょうか? 多額の寄金を拠出した兼松商店の考え方はどうだったのでしょうか?
こうしたもっと知りたい事柄が、講堂の完成以来八十年近い歴史の中に、深く埋もれてしまっているような気がします。
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