津船良平が須賀五郎次に出会ってから三年たつ。
須賀の学年は、昭和十六年(一九四一)、太平洋戦争勃発のあおりで、翌年三月卒業を十二月に繰り上げられ、即兵役となった。津船が生まれた翌年だ。
東京商科大学(現一橋大学)の卒業対象は三百五十二人で、うち三十五人は戦場に散った。後、同大学のこの年度卒業生は十二月クラブ≠ニして結束し、須賀五郎次を核にして今に至っている。
二〇〇一年が卒業六十周年で、仲間は全て八十を超えた老人だ。この年を記念して、彼らが残した卒業から戦中戦後の膨大な文集をもとにウェブサイト『十二月クラブ』開設が企画された。
二回り近く後輩の津船は、彼がホームページに詳しいことを知る関係者の要請で、この企画に加わることになった。春先だった。彼は、六〇歳の還暦を機に、会社を後進に譲り、時間的ゆとりが出た頃でもあった。文集を拾い読みしているうちに、先輩たちの在りし青春群像に引き込まれた。
当初、彼ら十二月クラブのウェブ開設の意向は、「要旨を紹介して、如水会館図書室所蔵の詳細文献に誘う」だったが、津船は全文のウェブ掲載を主張して、全ての作業を引き受け、連日没頭することになる。疲労困憊。目はかすみ、十数年前に病んだ脳梗塞再発の危険を感じつつも、思いを遂げる。
その年十二月の記念総会で、やっと完成にこぎつけたウェブページが晴れがましく披露されたのだった。
それが機縁で、須賀は、親子ほど後輩の津船と親しくするようになった。翌年初の如水会賀詞交換会への誘いが皮切りで、
「名刺をたくさん持って来なさい」
そう念押しした。津船が経営する仕事も頭に入れてのことだ。このような場には初の出席となる津船の逡巡を意に介さず、強引だった。
「津船良平君です。十二月クラブのために献身してくれましたよ」
会場をくまなく歩いて、だれかれなしに紹介し、名刺交換させた。
須賀五郎次は歳を構っていられないほど忙しい。あちこちの要職・世話役がいまも続いており、月に何度か、神奈川湘南の鎌倉から東京千代田区竹橋の如水会館へ足を運んでいる。
会合によっては、しばしば津船を誘うようになった。ほとんどが母校OBの集いだ。
……折角の老先輩の好意も、社交性に欠ける津船にとっては苦痛だった。どこも、概ね一家言持つものが多く、なじめる場ではない。
学生時代を通じて、学業に身を入れず、スポーツや文化活動にも無縁の津船にとって、母校は、経歴の一ページではあるが、愛着を覚えるような思い出に乏しい。彼らの話題についていけないのが当然であった。
が、先輩須賀の周囲は常に華やいで、開けっぴろげだから、知らず津船の気持ちも和らいだ。
どの会合でも、須賀は演壇に立つ。スピーチは、落語の枕のようにはじまって、ユーモラスで、一同を惹きつけて離さない魅力がある。
こんな先輩もいたのか。そんな雰囲気に惹かれ、津船は、億劫ながらも老先輩の誘いに応じるようになった。
須賀五郎次は如水会(大学OBの団体)の重鎮である。小柄・猫背で痩せぎすだが、人物の大きさは広く知られるところであり、世話役を何よりと心得ている。老いを忘れさせる若さがある。
頭髪はなく、それを話の小道具に使う。チロリアン・ハットが自慢だ。
学生時代、ボートのコックス≠ナ鳴らした。コックスは、競漕時の司令塔たる舵手≠フ役目が仕事の一部で、クルーの生活管理が大部分を占める。彼が気を許した日はなかった。
「ボートが僕の原点なんだ。全てはそこで学んだ」
そう述懐する。
「栄養管理は入口と出口を制しなければ」
と、全寮制の利を生かして、食材の選定から排泄のチェックまで、徹底ぶりは音に聞こえていた。
カロリー、栄養バランス、季節・山海の恵み……、何よりおいしい料理をと、寮監とともに市場へ足を運んだ。
トイレは自分の用足しだけではない。
「ゴロチャンにはかなわんよ」
と煙たがられもしたが、クルーの信頼度はそれに勝った。
彼の裏方に徹した頑張りも支えになってか、当時のボート界では、大学・実業団あわせて、東京商大に並ぶべきものはなかった。在学中、昭和十一年から十六年まで、四度全日本制覇を成した。第二期黄金時代として、学園の歴史で語り継がれている。
「部活動はさぞかし厳格で苦労されたのでは」
津船の問いに、須賀の答は意外だ。
「僕たちの合言葉は、『漕艇とは何ぞや。ボートを漕ぎて遊ぶことなり。遊ぶといふは愉快に遊ぶことなり』だった。青春を謳歌したんだよ」
商大端艇部は、隅田川で汗を流し、夜は浅草でおだを挙げた。六十年も昔のことだが、思い出しては津船を浅草に連れ出した。
「ここはね」
当時をとどめているところでは、説明に熱がこもる。そういう場所は結構ある。記憶を頼りに路地を巡り歩いた。
歩きながら、津船に母校の歴史を語る。自身の逸話を種々織り交ぜて、話は尽きない。学問とスポーツの重要さを強調する。端艇部での活躍のくだりはとりわけ熱が入った。
昭和十五年(一九四〇)の東京オリンピック≠ヘ欧州大戦勃発のため幻と消えたが、実現していれば、ボート競技は隅田川でなく埼玉県戸田のプール・コースで行われていたはずだ。そこに商大の仲間とともに須賀も出場していたかもしれない。
事実、同年の戸田コース初の全日本大会は須賀たち東京商大が制している。
戸田のプール造成のエピソードが須賀の自慢だ。
オリンピックを三年後に控えた昭和十二年に、隅田川が『世界の覇者を決める競漕には不適』との断が下され、急きょ『荒川沿いの戸田地区に人工コースを造る』という、国の威信をかけた、当時としては途方もない案が閣議決定された。
当初は大手建設業者の共同体が大工事を進めたが、まだ今のような重機械のない時代だ。とてもオリンピックに間に合いそうにない。やむなく政府が敢行したのが、『囚人と学生の動員』だった。
一年余りに亘って、受刑者と学生たち併せて千人を超す寄り合い所帯が、つるはし・ショベルの手作業で、プールを掘った。受刑者は恩赦をあてに、学生たちは来るべき東京オリンピック出場を夢見て──。
彼らの混成作業が、本当に大丈夫なのか。流血騒ぎでも起きたらどうする。そんな不穏な幕開けだった。
…………
終戦直後のある日、復員したての小柄な青年が、荒川沿いの土手に立って、焼け野原の戸田プールをいつまでも眺めている。
陽はまだ高い。薄の穂が、キラキラしながらそよいでいる。
造成作業の一員として、畚を担いだ日々。満々と荒川の水をたたえたプールで競った対校レース。待ち望んだオリンピック大会は実現しなかったが、その年と翌年にこのプールで連勝した……。
囚人たちと手で掘って造りあげた幻のオリンピック競漕用プールは、いま巨大な水たまりで、当時の面影はない。荒れ放題で、周囲は雑草が所狭しとはびこっている。
「あんた、あの時の学生だろう」
頬のこけたひげ面男が後ろにいる。さっきから同じようにプールを見ていたようだ。よれた軍帽・軍服にゲートル姿は、青年よりみすぼらしい。が、声は快活で、親しみがある。
見覚えはないが、それでも懐かしく敬礼した。あの時苦労をともにした仲間であることは、瞬時に理解できている。
「あんたも来たくなったのか」
男はそう言って、またプールに目を向ける。陽差しが水たまりに反射している。
「あちらでもよく思い出したよ」
つぶやいて、また見入る。
どれほどたったか、日脚は弱まってきた。
「一杯つきあえよ」
狭い居酒屋は、夕暮れ時だが、立ち飲み客がカウンターに並んでいた。薄暗い奥で、老婆が腰をかがめて、破れ団扇をパタパタやっている。煙りに匂いが運ばれて空きっ腹を刺激した。
男は湯飲み茶碗のカストリを一気にあおって、「もう一杯」を要求した。太い二の腕に彫った忍冬唐草文の刺青が見え隠れする。
青年も、この酒特有の匂いは気にならないが、強くはない。ホルモン焼きの旨さに血が騒いだ。
男は青年の肩をたたきながら、ドスのきいた声でしゃべった。気心の通じた仲間≠ノ還っている。
「俺でも汗が噴き出たぜ。お前たち学生はよ、口は達者だが、やるこたあーからっきしダメだったなあ。つるはしの使い方すら知らねえんだから。菰を担げばひょろひょろするし……。けどよ、日がたつにつれてさま≠ノなってきたよなあ。さすが学生さんだ。工事完成≠ニ言われたときはガッカリしたぜ。……お前、オリンピックに出るんだったんだろ?」
カストリをまたぐいとあおって、若い仲間に目を据えている。
「これからはあんたらの時代だ。その才覚で国を立て直してくれ、頼んだぜ」
相手を制して勘定を済ませ、名前を名乗り合っただけで去った。
…………
彼らの人海戦術で成し遂げたプールは、幅六十メートル、深さ二・五メートル、長さ二千四百メートルで、荒川から引いた水が満たされた。世界各国で選りすぐられたオール・メンが、ここで四年に一度の覇を競うことになるのだった…………。