柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規、「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)でいう、升(のぼる)さんの有名な句である。
季節、場所、状景、色、音、味。いい得たものだ。「目には青葉山ほととぎす初鰹」(山口素堂、江戸元禄時代)も好きだが、ずっと広くて奥ゆかしく感じる。
時季が近づくと、必ずこの句が浮かぶ。柿が待ち遠しくなる。
その柿も、暮れになってシーズンは終わった……。
ぼくの秋は梨(なし)ではじまる。店頭のトウモロコシがラップに包まれ、スイカの値段が高くなってくると、梨が高嶺(高値)の花で姿を見せはじめる。上質の紙で包(くる)まれたり、特別の箱で陳列されたり。手を触れるなどもってのほかである。どなたの買い物かごに入っていくのだろう。飛ぶように売れるとは考えにくいので、売れ残りは? よけいな心配をしてしまう。
待てしばし。くだものの旬はそう長く続かないのだ。高値は、日が経つにつれ見る見る落ちてくる。そしていよいよ秋になるのだ。
梨の切り札は、独特の硬さというか、石細胞の果肉をガリリッとかじったときの感触。瞬間に、じわっと伝わる芳醇な味。
ぼくは昔から包丁で梨やりんごの皮をむくのが自慢だった。立ったまま包丁の刃を進め、薄く、最後まで、ストレートにむく。むくにつれて皮がまっすぐ足元の受け皿に落ちてゆく。「上手やのお!」母がうれしそうに誉めてくれたものだ。
いつからか、ぼくは梨もりんごも柿も、皮をむいたことがない。少なくとも自分のは、絶対に皮ごと食べる。「よく洗って」を意に介さないのもなんだが、「おちょぼ口に合わせたように八つ切りにし、芯のところをもったいないほど取り去って、皮を厚くむいて皿に盛り、格好つけたフォークで……」、どこかのレストランで遭遇したことがある。なんと間の抜けた味わい方か。梨、りんご、柿は、場所と状況の如何にかかわらず、さっと水洗いして、丸ごとかじる。これに限る。食べ終わって、歯の間にこまった皮を楊枝(ようじ)でせせり出すのも、季節の風情と心得る。
梨が出回ってしばらくすると、真打の登場。柿である。
1年の周期で、ぼくはこの時を待っている。なにが待ち遠しいといって、柿の右に出るものはない。強いて云えば、幼い頃のさんま寿司は別として、前述の梨と正月の杵餅か。比ではないが。
それこそ柿色の、ふくよかなまん丸を店頭に見つけたときの喜び。
がすぐには買わない。梨のときと同じだ。しばらくじっと待つ。何日かの辛抱だ。
マンションからすぐのスーパー。少し行ってスーパーダイエー、イトーヨーカドー。ぐるり歩き回って値比べする。どの店がいち早く1個150円を切るか。
くだものには旬がつきもので、とくに柿はシーズンが短いから、そんなに待たせはしない。生産者には気の毒だが、しばらくすると、日を追ってつるべ落としとなる。
そうなったときの幸せ感。取るものもとりあえず、1個を購入。水洗いして丸かじり。甘〜い芳香が口いっぱいに広がる。至上の喜びのときである。
なぜ150円以下になるまで待つか。
第一、くだものはお上品に食べるものではない、がぼくの信条。1個150円以上じゃ、お上品でなくとも、自然一口ずつ味わいたい気持ちになってしまう。おいしさが帳消しになる。150円は丸かじり醍醐味の上限だ。
丸かじりといえば、夏、プリンスか、ハニーデューか、マスクメロンか知らないが、妻がおいしそうなのを見つけてくるときがある。どのように食べるか。決まったことだ。包丁で4つに割ってその一つの種をすばやく取り去り、大さじでがぼっとすくって、口一杯にほうばる。二口、三口で終わる。あとは、妻が残りをさらにいくつかに割って、小匙(さじ)でヨチヨチ口に運ぶのを、哀れみをもって眺める。
夏のメロンはその一個で終わりだ。おいしい。それだけである。自分で買ったことはないし、妻に所望したこともない。
柿に戻る。
1個100円以下になるころから、店の柿棚は広がりだし、いろんな産地ので各種賑わってくる。甘さ・おいしさも急カーブで上がる。値段と反比例が宿命なのだ。
@種あり、種なし A富有柿、次郎柿、早生柿、…… B和歌山産、奈良産、福岡産、岐阜産、……。世の中に1000種類以上とか。
どこのでもいいのだ、どんなのでもいいのだ、ぼくにとっては。事実どれもおいしさ満タン。色がよくて、てっぺんがへっこんでいないの、とかなんとか言われるが、そんな法則も過去の遺物だ。不味(まず)そうなのも美味(おい)しいし。今シーズンは例外ゼロの旨さだった。
昔は熟したほうがよかった。硬いのは渋かったからだ。そうでないのも、甘味はほど遠かった(母がそんな青い柿を、焼酎で渋抜きした。蔕(へた)のところを35度の焼酎に浸したあと、暗所で寝かせる。数日経つと独特の風味がでた。懐かしい)。
いまはどんなのでも、渋いのが極めて珍しい。だから、少しは歯ごたえのあるのがよい。柔らかいからといって豊かな甘味が増しているとは限らず、時には鮮度の落ちたのに出合うから注意。
天気のいい晩秋の午後一番、よれたハットにジーパン姿で、まずはスーパーダイエーまで歩く。くだもの売場で、とりわけ色つやのいいのを1個買って、トイレで水洗いする。
ガリリ、まろやかな柿色に歯形を入れながら、広い通りを浦安の海に向かう。途中、明海大学のキャンパスでひと休み。食べ終わったのをくずかごへ。
南へ5分とかからずイトーヨーカドーだ。ここで2個目を仕入れて、トイレで水洗い。ゆっくり味わいながら、境川沿いに30分ほどで浦安海岸に着く。
浦安の海はいつ見てもあきない。大海原とは表現しづらいが、広い。太陽も昇るし、月も出る。
東に目をやると、向こうは幕張のビルが林立している。

そこから右に向かって房総半島の内房が延びる。木更津から君津にかけては、何本か、高炉の巨大煙突から煙りが立ちのぼっている。

灰色に赤の混じる煙は、黒澤明監督の「天国と地獄」を思い出させる。あの映画、焼却場の煙突から一すじ立ちのぼる煙のシーンだけがカラーだった。それもモノクロの画面に煙がほのかな赤。印象的な瞬間で、ストーリーの核心でもあった。
で内房は、さらにどんどん延びていく。"南へ"の地図の感覚とは様子が違い、長い沿岸は正面の彼方を通せんぼして、右へ。入り組んだ線状ではなく、鮮やかな円弧を描いていくのだ。
西側は、すぐそこのディズニーリゾートから葛西臨海公園を経て、少し向こうで左に湾曲する。そこが多分川崎付近なのだろう。見晴らしのいいときは、遠くに富士山が見える。
西沿岸は、横浜辺(あた)りを南に向かって三浦半島へと延びてゆく。
房総と三浦両半島の先っぽは、湾のはるか向こうでカブトムシの角のように向かいあっているはずだ。肉眼では定かでない。東京湾に出口がないようにすら見える。
湾内は、遠くにタンカーが何隻も、近くは漁船やレジャー船。ボートが走り、ヨットも浮かんでいる。でもこれらはすべて、東京湾上に散らばる点景だ。
海鳥が群れなして飛んでいる。すぐ前の海面で骨休めしたり、海中に潜っているのもある。

海岸は、堤防に並んで釣り人たち。釣りマニアと場所を分けあって、カップルや家族連れや。真剣な表情、和やかな集い、さまざまである。
上空は飛行機が行き交う。羽田空港が近いのだ。
いつものどかな光景だが、柿の季節がベストだ。柿の味も浦安海岸が最高。潮の香が甘味を引き締めて、しみじみ幸せ感に浸らせてくれる。
…………
一山いくらが終わって、柿棚がつるし柿やラップに包んだのだけになったとき、シーズンの別れである。
ラップのは、希少価値はあるが、柿好きは手を出してはならない。くだものは鮮度が生命(いのち)なのだ。冷凍も効かないし。とくに柿の場合は。
ラップ柿は、一見表面がやゝ色褪(あ)せたくらいで、一応の味覚をそそりはする。が、一口で悲しくなる。梨と洋ナシ以上に違うのだ。もっとも洋ナシはそれなりの風味はあるが。
「来るべきときが来ましたよ」
萎(な)えた果肉が味覚中枢に、シーズンの終わりをあからさまに告げてくる。
かといってイチゴのように、いつが時季なのかわからなくなってしまったのは、もっと不幸だろう。やはり柿は、柴又の寅さんのように、年に一度やって来て、いつの間にかいなくなるのがいいのだ。(寅さんは年に2度だったかな?)
といいながら、今シーズンもいじましく、年末まで格安のラップ柿を、それが店頭から消えるまで、「まずい、まずい」とこぼしながら、未練断ちがたしだった。
つるし柿は、ぼくの云う「柿」とは氏素性も異なる製品と心得ているので、ここでわざわざ言及はしない。ひと言だけ……ウィスキーの肴には特上である。
3ヶ月前(2002年11月中旬)にイタリアへ旅行した。9日間、柿が最高の時期に日本を留守した。
日本食抜きの9日間やそこらは何ともないし、とくにイタリアは好きなスパゲティやピザの国だから、むしろ食事は予期したとおり楽しさ一杯で、毎食が思い出深いイタリアーノづくしだった。
柿は成田空港で最後の一個をほうばり、名残(なごり)惜しく決別していたのだが……。
最初の地ローマの2日目、夕方の自由行動を市街のリナ・シェンテ百貨店でウインドー・ショッピングした。ホテルへの帰りがけ、スーパーマーケットに入る。
あるのだ、柿が! 数10個、棚に盛られている。吊り鐘状ので、大きい。色も申し分ない赤い柿色。思わず歓声を上げてしまった。
最もおいしそうなのを4個選りすぐって買い物かごに入れた。

ホテルに着くや否や、水洗いする。心もち柔らかい。熟している証拠だ。極上の味を保証している。少なくとも何年か前まで、硬いのが渋かった頃、こういう柔らかめで赤いのは、わが国では高価で、それに見合う味があった。
蔕(へた)をナイフで切り取るのももどかしく、ガリリッ。飛び上がった。口一杯に渋が広がる。思わずゴミ箱に吐き出した。一晩中、口の中は渋で腫(は)れぼったいままだった。
翌朝、性懲りもなく、残りの吊り鐘柿をナイフで開く。中は縦長の縞状になっていて、どれも実(み)の白いところが渋だ。白長(しろなが)にはさまれた幅広は赤く熟している。ここは間違いなくうまいはず。そのとおりだった。ものすごく甘い。が当然渋も少しは口に入る。二、三口すると、口中が再び渋の巣窟と化した。さすがの柿フリークもまいった。うらめし顔で、吊り鐘の残骸(ざんがい)をゴミ箱へ投じたのであった。
そしてイタリア6日目。ヴェネチアで、サンマルコ寺院、ドゥカーレ宮、ゴンドラ遊覧のあと、ミラノへの途中、ベローナという町に立ち寄った。
ベローナは、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」で有名なのだ。事実、中世この地で争いがあり、その両家の御曹司とご息女が悲劇の運命で果てた。後に、その悲恋物語を伝え聞いたシェークスピアが、歴史に残る小説とした。
近年この小説が映画化され、よけいに観光スポットになったようだ。
次の2本が有名。
* ロミオとジュリエット (1968年、英伊合作)
監督:フランコ・ゼフィレッリ、音楽:ニーノ・ロータ
主演:レナート・ホワイティング、オリビア・ハッセー
* ロミオ+ジュリエット (1996年、イタリア)
監督:バズ・ラーマン
主演:レオナルド・ディカプリオ、クレア・ディーンズ
どちらもぼくは観ていない。こういうのは眠くなるか、涙が出て、だめなのだ。
ジュリエットの館(やかた)広場で、ご多分にもれず、ぼくも妻と記念写真におさまった。ジュリエットの右乳房に触れると幸運に巡りあえるとか。恥ずかしくて、この場は妻にまかせた。

で、柿の話。
観光を終えて、とある露店市場でバス待ちをしていた。雑貨屋に頃合いの帽子(キャップ)があった。「Giulietta
e Romeo」のロゴ入り。7Euro(900円)で買う。
と、横の露店くだもの屋に例の吊り鐘柿。ローマのよりはるかに赤く、熟れている。これこそ極上だ。勢い込んで訊く。
「Delicious?」
店のおばさんは、一瞬きょとんとする。英語が通じない。もちろん日本語も。やむなくジェスチャー・ゲームとなる。妻と娘に笑われながら、やっと思いが通じたようだ。おばさんはにこにこ笑って、なにか言いながら首を立てに何回も振る。
「ほら、絶対においしいそうだよ!」
たしか0.8Euro(100円)で2個買った。随分得をした気になった。
ミラノのホテルに着く。早速水洗いのあと、ローマの轍(てつ)は踏まじと、ナイフで真っ二つに輪切りする。失望だった。ローマのと同じなのだ。白い渋が、これ見よがしげに浮き出ている。恨みがましく、熟した赤み部分を選んで指でつまみつまみ、口に入れた。口中がローマの轍、渋で充満は自明の理だった。
「日本なら! 日本の柿なら!」。嘆きながら日本が急に恋しくなった。
拙(つたな)い一句で「柿の話」を閉じることにする。
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