Part1 三輪崎の砂浜(はま) Part1朗読(8'19") on

 何年ぶりになるか、平成3年(1991年)、桜が散ったころ、妻を伴って帰郷した。
 午後3時に浦安のマンション自宅を出て、東京・有明埠頭へ向かう。今回は車で行くのをやめた。サンフラワー号はカーフェリーだが、そのまま客室へ。船は一晩かけて太平洋岸を航行し、熊野灘に入って南紀・勝浦港へ。
 太陽が海から昇って弱い陽光を受けながら、濃緑の紀州の山並み、見覚えのある三輪崎の海岸と鈴島・孔島、その西側が佐野で、巴川製紙の煙突が小さく見える。うっとりしているうちに、サンフラワー号は内湾に入り、勝浦町宇久井の港に接岸する。
 すぐそこの停留所で新宮行き路線バスに乗って20分、三輪崎港前で降りる。先祖の墓はそこから15分ほど行ったところにある。人気(ひとけ)のない田んぼ道を歩く。向こうに新宮商業高校が見える。その手前が光洋中学校だ。あちらの道は学生たちが登校しているころかな、それとも授業がもうはじまっているか。
 墓の佇まいは変わっていない。町中の墓地をここに移転したのはいつだっただろうか。前のそれこそ幽霊の出るような薄気味悪い場所に比べて、いいところへ引っ越したものだ。東に八幡神社が見える。傍に小川が流れている。
 幼いころ父を手伝って耕した一反八畝が近い。どこだったかはすぐに見当がつく。もっともどなたかの住宅地になっているが。
 墓参をすませてから、30分ほど東へ海岸沿いを歩いて母の家に着いた。午前10時。真向かいの大前屋旅館はずいぶん古びている。かつては巴川製紙佐野工場への出張者の定宿でもあったのだが、工場が規模縮小して以来、お客さんはどうなのだろう。

 春愁がそうさせるのか、たまの帰郷のゆえか、センチメンタルな気持ちになって、いま目に映る故郷の風物を、少年時代の想い出として記憶にあるそれらと比べてしまう。あの頃の三輪崎はどこへ行ってしまったのだろう。記憶がウソをついているのか。

 家(うち)から海水パンツ姿で海岸へ走って、そのまま飛び込めた海が、砂利と石ころまじりの遠浅になっていた海岸が、遥か向こうに遠のいている。沖まで埋め立てられた土地が目の前全体に広がっている。東半分はチップ工場用地で、西半分は黒潮公園になっている。

 母はいまの黒潮公園が好きだという。子供の自転車とぶつかって痛めた足を、手押しの乳母車でかばいながら南に向かう。母ののろい足でも10分も歩くと公園の東入口に着く。
 すぐが子供の遊び場になっている。すべり台、ブランコ、ジャングルジム。ライオン・ゾウ・キリン・トラたちをかたどった遊具もそろっている。そこから西へ、棕櫚(しゅろ)、浜木綿、つつじの木々や、きれいな草花に囲まれた細道を歩くと、佐野側の出口だ。乳母車を押しながらの散歩は母の日課である。子供たちとは馴染みで、子連れの若い母親たちと挨拶をかけあったり、世間話をするのが楽しみらしい。

 黒潮公園のおかげで、殺風景だった佐野寄りの浜はきれいになった。ただ、この海岸沿いの公園からでも、あのコバルトブルーの海が、いまは高い堤防に遮られて見えない。

 黒潮公園の東寄りは、埋立地がもっと沖まで伸びていっている。堤防があるのだろうか。海は肉眼では見えない。
 広がった土地の大半は木材のチップ工場用地で、一部稼動をはじめている。完成に向けて、砂利や鉄材等を積載したダンプカーや大型トラックが頻繁に往来している。
 その東、目と鼻の先に孔島が浮かんでいる。漁師の守り本尊である小島もそのうち地続きになるのだろうか。

 現在新宮市三輪崎となっている半農半漁の小さな町は、海岸からすぐそこの二つの小島が自慢だった。鈴島と孔島だ。
 鈴島の付近は、漁船を係留する桟橋が思いきり模様替えしている。が、その桟橋の東側にあたる砂浜は猫の額のようにまだ残っていて、僅か昔を留めている。しかしぼくの記憶にある砂浜はもっと広くて、もっと白くて、波打ち際は目映かった。いま、砂浜は、申し訳程度に狭くて荒涼としている。
 少年の頃(昭和25〜30年当時)を振り返ると、三輪崎の砂浜(はま)はこんなふうだった。

伝馬船(てんま)と父
昭和25年(1950)頃の三輪崎の浜と海
伝馬船(てんま)と父
Part1朗読(8'19") on

Part2 あの頃 Part2朗読(6'36") on

 ぼくたちがはま≠ニいえば、海に向かって鈴島より東側の砂浜に決まっていた。
 半世紀近く前になるが、少年時代(昭和25〜30年)の三輪崎の砂浜(はま)はこんなふうだった。

 鈴島への桟橋から東側は、遠くに見え隠れする山裾のトンネル付近に向かって、海辺に細長く広がっている。トンネルはJR紀ノ国線の鉄道用で、山から海にせせり出た崖をくり抜いてあり、ときどき列車が顔を出したり、中へ消えたりする。
 西側は、やや幅広の浜が佐野方面に向かっている。東の浜が砂浜であるのに対し、こちらは小石の浜だ。あちらこちらで地引き網があげられて、かけ声が聞こえる。ぼくも何度か手伝って、小魚か貝のサザエやナガレコをもらったものだ。浜は途中で途絶えて、岩礁は宇久井、那智、勝浦へジグザクの弧を描いている。

 砂浜(はま)は太平洋の熊野灘に面していて、すぐそこの形のいい小島が鈴島だ。濃緑の2本の松は見栄えがいい。打ち寄せる波しぶきが目に鮮やかである。
 鈴島から西へ、200メートルほどケーソンを歩くと、もう一つの小島が浮かんでいる。漁師の神を奉っている孔島だ。浜木綿の群生地でもある。こちらは雑木林がうっそうとしている。

 お気づきのように、東側の砂浜がぼくの思い出だ。
 灰色がかった白色で、粗目(ざらめ)の白砂糖を連想させる。注意するとあちこちに小さな貝殻がキラキラ光っている。年中子供たちの遊び場であり、海女(あま)のくつろぎの場にもなっている。そのおばさんたちがたき火を囲んでいた冬の日が懐かしい。

 夏は海水浴客で賑わう。淡いマリンブルーの海からうち寄せる小(さざ)波。その波打ち際で大勢の子供たちが水着で砂遊びに夢中である。
 秋は台風の合間を縫って邑(むら)祭りでにぎあう。砂浜は鯨踊りの大舞台になる。
 江戸か明治時代の捕鯨の衣装をまとった男たちの威勢のいい歌と踊り。笛や太鼓の音も遠くまで鳴り響く。

鯨踊り

殿中踊

(ヨヨイエー)
突いたや三輪崎組はサ (ハア三輪崎組はサ)
  親もとりそえ 子もそえて
前のロクロへかがすを付けてサ (ハアかがすを付けてサ)
  大背美巻くよな ひまもない
組は栄える殿様組はサ (ハア殿様組はサ)
  旦那栄える いつまでも
竹になりたやお城の竹にサ (ハアお城の竹にサ)
  これは祝いの しるし竹
船は着いたや五ヶ所の浦にサ (ハア五ヶ所の浦にサ)
  いざや参らん 伊勢さまへ
  (ソリャ 一国二国三国一ジャー)

綾 踊

(ヨヨイエー)
今日は吉日きぬた打つ (アヨーイヨイ)
今日は吉日きぬた打つ
  お方出てみよ子もつれて (アーきぬた)
なんとさえたる枕やら (アヨーイヨイ)
なんとさえたる枕やら
  よいと夜中に目をさます (アーきぬた)
淀の川瀬の水車 (アヨーイヨイ)
淀の川瀬の水車
  誰を待つやらくるくると (アーきぬた)
沖の長須に背美を問えば (アヨーイヨイ)
沖の長須に背美を問えば
  背美は来る来る後へ来る (アーきぬた)

伊勢のようだで吹く笛は (アヨーイヨイ)
伊勢のようだで吹く笛は
  響き渡るぞ宮川へ (ヨヨイエー)

 新宮や周辺の町村からも見物客が詰めかける。
 はま≠ノ上げられて整列している漁師の小舟に、大漁の幟(のぼり)がはためいている。

 冬は、海風に乗って砂ぼこりが舞う。雪は滅多に降らないが、土地(じ)の者にはとても寒い。
 海はしょっちゅう荒れ狂う。それでも男たちは、よほどの時化(しけ)でもない限り、櫓(ろ)を漕いで沖へ出て行く。磯崎寄りの浅海では海女たちが潜っている。あちらこちらの海中から顔が現れると、草笛を下手に吹いたような声がこだまする。
 波打ち際で焚き火を囲み、かじかんだ身体をもみほぐしながら、しばしの休憩をとっている海女もいる。
 「さぶいよう!」
 「さぶいのうし」
  …………

 春の砂浜、
 ぼくが小学6年、弟は4年だった。

Part2朗読(6'36") on

Part3 春の想い出 Part3朗読(6'40") on

 の砂浜を思い出す。
 ぼくが小学6年、弟は4年だった。
 学校が終わると、家にランドセルを放り出して、二人は砂浜(はま)へ急ぐ。走れば家から2、3分だ。
「気いつけなあれよう。仲良うせなあかんで」
 母の声が遠ざかる。
 同じ年頃の少年たちが、てんでんばらばらな服装、格好で集まってくる。みんな棒っ切れのバットと、様々な恰好のグローブを持って。

父と母 ぼくと弟は、父が作ってくれた楢(なら)の木のバットと、母が帆の切れっぱしの中に布団の綿をくるめて縫ってくれたグローブを携えている。
 楢は、父が山の中を探し歩いて選んできたものだ。軽くて強くてよく飛ぶ。

 子どもたちは、人数の足りない分、守備位置をかけもちだ。ダイヤモンドではなく三角ベースで、内野はピッチャーとキャッチャーだけ。一塁と二塁手は外野掛け持ちだ……。
 日が暮れてしまうまで夢中になって遊びまくる。家路につく頃は、みんな体中砂だらけだった。
「こんなにまあよう汚したもんや。はよ風呂に入りなあれ」
 砂にまみれたぼくと弟を見つめる母の目は怒っていない。
 裸になって、裏庭のドラム缶の風呂に入る。

 仲のいい兄弟が喧嘩をした。
 なんでもない意地の張り合いだった。砂浜から弟はグローブを手に、泣きながら帰った。ぼくは、バットとグローブを脇に抱えて、ふてくされた顔で後についた。父に対して「どのように弁解しようか」と、ありったけの知恵を振り絞りながら。
 二人とも砂と泥と汗で汚れていることなど、かまっていなかった。弟は泣きじゃくりながらなんといってぼくをなじったのだろう。ぼくは弟の非を声高に訴えたに違いない。
 優しい父は手を上げなかった。説教もしなかった。懲らしめのためときどきやる「灸」もすえなかった。
 黙ったまま二人からバットとグローブを取り上げた。二本のバットは鋸(のこぎり)でまっぷたつになり、風呂の薪の中に投げ入れられる。かまどは一瞬燃え上がる。
 二つの帆のグローブは、包丁で惜しげもなく切り裂かれ、これもかまどでボーッと燃え上がった。
 弟はもう泣いてなかった。ぼくは弁解を忘れていた。二人の顔は引きつったままだった。

 以来、二人とも学校から帰っても、砂浜へ直行しなくなった。行く理由がなくなったのだ。
 父は二度とバットを作ってくれなかった。母もグローブを縫ってくれなかった。夕食の膳を囲みながら息子たちの自慢話を、あれほど楽しそうに聞いていた両親だったのに。寡黙な父のあのニコニコ顔。学校のことは子供たちのなすがままにさせていた父だが、砂浜(はま)の話にはとりわけ熱心だったのに。

 大下、川上、別所は、もはや息子たちの将来像から消えた。プロ野球の選手が夢だった。父も、息子たちの野球を眺めるのが何よりの楽しみだったのに。わがことのように自慢していたのに。
 ちょうど三遊亭歌笑の落語が、茶箪笥に乗せてある5球スーパーラジオから流れていた頃だった。

 「…………ぼくは大打者川上だ。きのうは2本のホームラン。きょうは3本打ちました。ぼくが打つたび学校の、ガラスが割れて先生に、廊下の隅に立たされた。
 すごすごおうちへ帰ったら、小使いさんが来てました。ガラスの代金受取りに。青い顔して父さんが、ぺこぺこ頭を下げていた。涙ふきふきかあさんが、ぼくに向かって言うことにゃ、家(うち)にはお金がないのです。だから野球をやるときにゃ、高いガラスを割らぬよう、打ってくれるなホームラン。
 その明くる日も明くる日も、ぼくは空振り三振で、とうとう補欠にされました。 歌笑純情詩集より・・・」 (名人名演落語全集第8巻、立風書房)
Part3朗読(6'40") on
「砂浜(はま)」おわり
(1991.05.12)
閉じる